Tomoki hapax legomenon

自分なりに考えたことを書きます。趣味は自然写真の撮影。

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最近の記事

型と言霊

西洋人と日本人の古典芸能に関する認識の違いは何だろうか。世界各国で様々なルーツを持った俳優たちが、ソポクレスやシェイクスピアの悲劇をその国の言語で上演していて、そのことについてアテネ在住で文芸に精通しているギリシャ人に先日メッセージで尋ねてみると、ギリシャ悲劇が外国語で上演されることは彼女はもちろん一般的なギリシャ人の価値基準に照らし合わせても光栄なことらしい。翻って、ギリシャ語やドイツ語で能楽や歌舞伎を演じる当該国の役者たちの舞台の存在を、日本人である私は寡聞にして知らない

    • 言葉はややこしい

      ポリティカル・コレクトネスとキャンセルカルチャーを関連付けた場合、ポリコレを重んじるリベラルは意外と寛容じゃない説に対して、確かにそうだなと思う事はある。日本の格闘技界の言説の自由さと比較すると私は余計にそう感じる。誹謗中傷は論外だけど、言葉を徹底してクリーンにしようとする昨今の風潮には正直違和感がある。 そのような違和感を抱く原因として、若い頃にチャールズ・ブコウスキーの小説やライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画にふれたり、今でも英語圏の女性ラッパーの曲を聴いたりし

      • 実在と幻想

        ずっと前から私はヒップホップが好きだったので、リアルを巡るミュージシャン同士の論争について少しは理解しているつもりだ。仮にラッパーAが「自分のラップはリアル」だと自画自賛するだけなら問題ないのだけど、AがラッパーBに対して「Bのラップはフェイクだ(裏を返せばA自身のラップはリアル)」と批判するとそれはビーフ(論争)になる。 こういう類の論争は、ソーシャルメディアが普及して以降日本の格闘技界隈でも起きていて、一種のパターンと言えるかもしれない。どちらかといえば「自分の実力はリ

        • 英語について

          日本の地方に住んでいると、ネイティブあるいは高いレベルで英語を話す非ネイティブの英語話者と出会う頻度は基本的に少ないと私は考えている。つまり都市圏に住む方が英会話の習得には有利なのだが、一方で今はインターネットもあるわけだし英語を使う環境は以前よりも充実していると思う。外国語とテクノロジーの使い方次第で、アクセスできる情報は格段に広がるはずだ。 英語学習において学習段階を意識することは重要で、学び初めは非ネイティブの英語話者から英語を教わって、それに慣れたらネイティブの英語

          不確実論

          「一寸先は闇」というのは既存のシステムが制度疲労を起こした時代にこそ説得力のある寸言で、歴史上の人物は予測不可能な時代に未来を切り開いて後世にその名を残してきた。最近、律令制の崩壊と武士の成り立ちに関する書物を熟読しているので余計にそんなことを考えてしまう。 歴史に関連した書物を読んでいる最中にその言葉を初めて意識したのは、小説ではあるが司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を高校時代に夢中になって読んでいたときだった。それは今でもよく覚えている。あるいは中国の古典『三国志』を読んでい

          理性について

          フランス生まれの思想家ルネ・デカルトは17世紀に活躍した人物で、大規模な宗教戦争として有名な三十年戦争を身近で経験している。尚且つ同時代に活動していたイタリアの自然哲学者ガリレオ・ガリレイの異端審問の影響を肌で感じていたはずで、その只中により原理的な思索を深めたのが私には興味深い。結果的にそれは近代合理主義の礎になった。時流に流されない強靭な思考の持ち主である。 私自身、デカルトの書籍や確率&統計に関する本を読んでいるので合理性に関しては少なからずこだわりがあるのだけど、理

          伝統の変遷

          私が青年だった当時から日本は外来、とりわけアメリカの最新文化を取り入れることに敏感かつ熱心だったが、スマートフォンが普及してソーシャルメディア時代が到来したことで以前よりも文化的対立が先鋭化したような印象がある。たとえばLGBTに関する論争がそうだし、(あまり好ましい表現ではないが)海外出羽守という俗語も数年前からインターネット上で広く知れ渡るようになった。外来のリベラルな潮流に反発してきたのが日本の保守派であり、彼らの価値観の拠り所となるのが日本の伝統文化である。 それで

          変わらない場所

          今年の春ごろから私は自身の健康維持を目的に市内をウォーキングすることを日課にしているのだが、その間に気づいたことが二つある。まず一つは十年前と比較して中華&アジア系の料理店が増えたように思う。それだけ外国人居住者が増加したのだろう。そしてもう一つは以前のぼんやりとした想像とは違って実際には宗教施設が至る所にあるということだ。果たして日本人は無宗教が多いと言えるだろうか? それとは別に、ちょっとしたきっかけから私は松本清張の小説を最近読みだすようになり、とりわけ彼の古代史や民

          無知と自由

          無知とは何か推論してみよう。自由な社会では各々が自分の関心のある事柄を追究していくことで自ずと仲間が出来て(研究者仲間、趣味の仲間、スポーツチーム等)、次第に各分野の専門性も高まるようになる。つまり、多様な他者が多様な目的を追求することによって、個人の知識の範囲は受動的に狭くなっていく。 そのように仮定すると、物事に対して無知であることにそれほど恥じらいを感じなくても良い気がしてくる。自分が何を知ろうが知るまいが結果的に私の知識量は社会全体の集合知と比較して相対的に狭まって

          嫌悪について

          嫌悪感情について考えるのは面白い。生理的な嫌悪感と文化的な嫌悪感には相違があるし、目を背けたくなるような自分自身の情けない側面をある対象に自己投影している可能性もある。特定のカテゴリーを見聞きした瞬間に不快感を抱く人もいる。 そこまで突き詰めたうえで私は理性について考えたいと思っている。 さらに言えば嫌悪感と怒りは似ているようで感情的に異なると私は考えていて、明らかに間違ったことをされたとき怒りを表出するのは自然なことだと思う。言うまでもなく抑制的に表出すべきだけど。嫌悪感

          言葉の力

          私は数年前から「心を奮い立たせる言葉とその力」を意識的に避けるようになった。むしろ私は、ありきたりな言葉の力に関心を持つようになったと言い直しても良い。 心を動かす言葉に対して懐疑的になった理由をひとつ挙げると、私はアメリカの歴史や文化に関心があって基本的には彼らに好意を抱いているのだが、著名な米国人のスピーチの巧みさや雄弁さに関しては正直ずっと前からどこか引っかかるものがあった。もし私がアメリカ人なら、私はひねくれているので「その時は彼らの社会的メッセージにカタルシスを感

          自然と認識

          教養とは何だろう。若いころの私は、古典に精通している人が教養人であると勘違いしていた。それゆえ当時の私は、西洋の哲学書を熱心に読んだりクラシック音楽を聴いたりしてどうにか教養を身につけようとしたのだった。実際のところ、真の教養人とは花や樹木の名前を他人から訊かれたらすぐに答えられる人の事だと大人になった今なら分かる。だって花の名前に文化の優劣はないでしょう。 そして私は街を散策しながら花や鳥、樹木の写真を趣味で撮影するようになり、本では分からないような幾つかの事柄を理解でき

          現実世界

          日本語でソーシャルメディアを使っていると、様々な物事に対するネガティブな意見を目にすることが多い。思い返せばここ数年、日本では心理的にも経済的にもハードな事態が続いているので、精神的に気が滅入ってしまうのも無理はないと思う。 人はこれまで習得してきた知識や経験から、複雑な事象を単純化して解釈する傾向にある。仮に若いころ自分がイメージしていた将来像と今の現実に大きなギャップが否定的な形で生じているとすれば、社会の新しい変化に対してネガティブな見解を持つようになるのも心境的には

          文化について

          私は少年時代から音楽、とりわけ洋楽が好きで、クラシック音楽やジャズ、ロック、テクノ、ヒップホップ、それぞれ分け隔てなく聴いてきたつもりだ。それに加えて私はこれまで各地で多種多様なジャンルのアーティストのコンサートを鑑賞してきた。ハービー・ハンコックやアンダーワールド、それにヒラリー・ハーンといったような各分野を代表するミュージシャン達だ。 そんな音好きの私でも、自分が音楽に精通しているとは自信をもって言えない。第一に私は楽器を上手く演奏できるわけではないし、第二にあくまで私

          自然について

          「一部の人は資本主義に疲れたから自然に向かう」という発想は偏見だと思っている。なぜなら、自然に触れることは基本に立ち返って自らの生を再定義する行為だと私は考えているからだ。 人は都市的地域のなかで暮らすうちに便利さや効率性に順応していくものだが、なぜ多くの人が順応できるのかといえば高度なシステムが自然環境の複雑性やリスクを解消または制御してくれるからであって、その利便性を理解しつつも私は本来の自然のリアリティは忘れないほうが良いと思っている。それこそスーパーマーケットに行っ

          英語と多様性

          大人になって英語を学びなおして良かったことのひとつは、外国語を学ぶことによってむしろ日本語の使い方を意識するようになった点だ。 たとえば、出来るだけ同じ単語を繰り返さずにその類義語を意識して使うようになったり、頻出しやすい自然な言い表し方を調べるようにもなった。つまり、以前よりも辞書を読んで言葉を調べるようになったのだ。 そういう意味で、仮に外国や外国人に興味が無かったとしても、英語を学ぶ価値はあると思う。少なくとも私は言語に対して真面目に向き合えるようになれた。 今の