「君たちはどう生きるか」

今更、どう生きるでもねえだろ、俺…なんだが、ちょっと前にベストセラーになったし、岩波文庫発、教養教育の古典とあればね。

元は1937(昭和12)年の新潮社発行で「日本少国民文庫」の中に1冊だって。著者は、児童文学者・吉野源三郎。

旧制中学2年(15歳)のコペル君(あだ名)の体験から、社会の構造やものの見方、人間の関係性などの哲学的テーマが、叔父さんのノートを通して語られる。

「子供のうちは、どんな人でも地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。自分と自分の家を中心にして、いろんなものがあるような考え方をする。それが大人になると、広い世間というものを先にして、その上で、いろんな物事や、他人を理解していく。
しかし、人間は自分を中心として、物事を考えたり、判断するという性質は、大人になっても根深く残っている。自分中心の考え方を抜け切ってる人は、世の中でも稀だ。損得に関わることになると、自分を離れて正しく判断していくということは非常に難しいこと」

まずはコレが肝だな。

次に、叔父さんはコペル君にいう。
「いつでも自分が本当に感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくこと」の大切さを説く。いろいろ経験を積みながら、いつでも自分の本心の声を聞こうと努めなさい、というのだ。

「社会は、生活に必要なものを得ていくために、人間は絶えず働いて来て、その長い間に、いつのまにか、びっしりと網の目のように繋がってしまったのだ。気が付いたら、見ず知らずの他人同士の間に、切っても切れないような関係ができてしまってるのだ」とも。

また、「歴史上の人物で、本当に尊敬できるのは、人類の進歩に役立った人だけだ。彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ」という。

最後に、人間が犯す過ちについて述べるが、誰しも、なぜあの時に思った通りにしなかったのだろうという後悔は、皆、一つや二つ持ってるはず。しかし、それも時が経てば思い出になる。人が自分自身を愚かだ、哀れだと認める場合、それがすなわち偉大であるということだ。

この本が書かれた時代背景を考えると、理想を謳った社会主義的、コミュニズム的な側面も感じるね。

「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目覚めに対すると、同じ関係にある。人は、誤りから覚めて、蘇ったように再び真理に向かう」


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。