「100歳まで生きてどうするんですか?」

編集者の末井昭さんは、前に自殺に関するエッセイを2冊読んで好きになった。

重い題材を扱っても、ノンビリとしたユーモア溢れる軟派な文章で、感銘を受けることも多い。蛭子能収さんみたいだ。

末井さんの場合、子供の頃、母親が浮気相手とダイナマイトで心中爆死するという体験があり、“所詮、人間なんてどんなに抗っても死ぬ時は死ぬんだ”という覚悟みたいなものができて、不動産投機と商品先物取引で億もの借金を作っても、ギャンブルにハマろうとも(パチンコ雑誌の編集者になった)、愛人がたくさんいても(最後の奥さんが若くてめっちゃキレイ)、ガンになろうとも(全身麻酔が安楽死みたいで気持ちがいいという)、女装して、ストリーキングをしようとも、マジになることもなく、どこか飄々とした感じが、ドッシリとした大きな魅力になってるんじゃないかと思う。

「何か楽しいことをしてても、すぐに虚しくなってしまう」というのもよくわかる。

コレも基本、死ぬことについてのエッセイだけど、結局、自分にとって一番大切なのは自分であって、死は死ぬ瞬間だけが怖いけど、死が怖い本当の理由は自分と永遠に別れなければならないことじゃないかという。

人は思い出を作るために生きているとも。

中年以降は思い出と共に生きていく年齢であるから、もし100歳まで生きられるとして、50歳までが前期、50歳以降は後期と半分に分けて、50歳で年齢を一旦リセットして1歳から数えるから、末井さんは現在、後期23歳だという。

死は誰にも平等にやって来るから、例えば身内の死に立ち会うことは、死の予習をすることでもある。身内の、段々と衰え朽ちていく醜い姿を見て、汚い下の処理にも手を付けてこそ、生きることの意味や生命の尊厳、人間とはこんなものという真理がわかるのではないだろうかと俺は思うね。

将来、自分に死の始まりが訪れたら、抗うことなく素直に受け入れて、欲を言えば、死ぬまでのことを冷静に観察できるくらいの気力は残しておきたいものだ。

人間の死にはやっぱり宗教がフィットするものだ。末井さんは聖書に書かれてる原罪に注目して、もともとイエスには性欲がなかったという説に心酔する。つまりは原罪がないということ。

人間は自分のことしか考えられないと思うけど、自分だけが幸せになろうとすると、絶対になれない仕掛けがしてある。自分の幸福を突き詰めると、他者の中に自己を見ていくという境地に達する。それが「隣人を愛せよ」ということの真理だという。

最後に安楽死について、自分の意思で安楽死する人を否定はしないけど、安楽死の合法化には大反対だとする。

寿命って、最初から幾つまでとわかってれば、生も輝きはしないじゃろか?


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。