「日本人の死生観」

日本は、もともと狭い国土で災害も多いことから、“悲哀感”が強いという国民性がある。

人生や、この世の出来事を“悲哀”を持って受け止めて語ろうとするメンタリティを持ってるのだ。

日本人が持つ“無常感”は、この悲哀感をベースにした感傷的で抒情的なものなのだ。しかも、それは常に川のように淀みなく流れている。「もの哀しい」「もの寂しい」という言葉にも表れている。

それは、死を、怖くて拒否したくなるものとして捉えるのではなく、そこに親しさや安らぎを見出して、美学にすることができる。

悲しみの中に安らぎを見て、哀しみの中に愛しさを感じ取ろうとする。一種の諦めの境地ともいえるが。

そして、日本人には、対立するものでさえ、互いに平等に取り込む考えがあり、互いが溶け合う曖昧で微妙な味わいを大切にする。

そんな日本人の死生観とは、死ぬのも、生きるのも、その自然にかなった時節というものがある。死ぬ時節には、潔く死ぬことが良いのであって、死ぬ時節が来なければ、しっかりと生きるべきなのだ。

そこに至るまでに、最後に残されるのは、やはり“祈り”(逆は呪い)である。

死ぬことは、この世から消えてなくなることではなく、その人間が生きていたという事実を証明するものだ。死は、人間の一生に締めくくりを付け、その生涯を完成させるもの。消滅ではなく完成なのだ。その人間が完成する瞬間が死なのである。

あの世も霊(魂)も存在し、死後の世界とこの世もちゃんと繋がってる。死ぬまでは。心(脳)の中で。死ぬことで、完成することで、初めて“無”の、神も世界も何も存在しないところへ赴くことができるのだ。人間の認識を超えた全くの“無”だから、こうやって考えて書くことも意味がない。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。