【古典邦画】「善魔」

木下惠介監督の、1951(昭和26)年の作品「善魔」。原作は岸田國士の小説。

当時27歳の三國連太郎のデビュー作で、「三國連太郎」という名の“駆け出し新聞記者”の役で出演している。

善と悪、幸福と不幸、理想と現実、純粋と不純、男と女の狭間で揺れ動く人間を描いた、内省的なドストエフスキー的作品だと思う。

つまりは、善の心を貫くために、状況によっては魔の心を必要としても良いのか?ということだな。

新聞という公の媒体で、公共の利益のために、あからさまなウソではないけど、個人のプライバシーを利用しても良いものかどうか。

それで「善魔」であるが、取材対象(淡島千景)の妹(桂木洋子)を愛したことで苦悩するが、魔に徹しきれない、記者・三國連太郎は結局、恋人の前で善に徹することに。しかし、恋人は肺病で早逝してしまい、彼は死んだ恋人と結婚式を挙げるという、最初から最後までめっちゃ暗いドラマであった。

三國連太郎の存在感だけは突出してる。

劇中の三國の上司(森雅之)の台詞。
「人間の善性は元々、自らを守ることが精一杯で、進んで悪に闘いを挑み、その喉笛を締めるようなことはしない。だから、この社会を幾分でも救うためには、人間の心性、ないし霊性には、一つの新しい性格を与えなければならない。つまり、悪が本来の姿の中に持ってるような、しぶとさ、たくらみ、寡黙さを必要とする。これを魔性というなら、この魔性こそ、善を悪との闘いに駆り立てて、現実的な勝敗を決せしまる要素だという。魔性の善だ。すなわち”善魔”なる人間性を仮定することだ」。

真面目な木下監督らしいテーマだが、そんなに小難しく考えなくとも、そもそも人間は、状況によって、容易に、善にも悪にも変われる存在なんだよ。そして、善も悪も裏腹で、これまた状況によって左右されるのさ。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。