「西行 魂の旅路」

武士であり僧侶であり出家もした12世紀の人物、西行(サイギョウ)の歌集。

西行は、とにかく花(特に桜)が大好きで、花に関する歌をいっぱい残している。

例によって、散る花を見て歌を詠むが、花が散るのを見たら見たで、見なければまた見なかったで、どっちにしろ、心は“空”となるのであるが、最後まで花が散り終わるのを見届けたために、花への心残りはしずまって、心が空になる事態は回避できたことを表現した歌もある。←メンドクセー

出家(家族などを捨てて、世俗を離れ、僧となり修行する)して旅に出たために、花を見る心にも変化が生じたようである。

それに夜空に輝く月。月の絶対的な美しさを讃え、いろいろと過去を思い出し、その想いに酔い、モノの憐れを知り、仏教の浄土を見る。

当時の僧侶や歌人は、とにかく自然を目にすることで、関連する私的なことを思い出し、そこに哀れ・憐れみの情を感じて、歌を詠む。相手がいれば、また相手は歌で返す。

花や月を見て、胸が締め付けられるような悲しい虚無感と、心が浮き立つようなワクワク感、そして無常感とを同時に経験するという、明暗入り混じった感覚は日本人ならではなのかもしれない。

世を捨て、世に捨てられた西行が、生涯をかけて追い求めたもの、それは歌に詠んだように、美しく贅沢な死を実現することであったという。

「空になる心は春の霞にて 世にあらじとも思ひ立つかな」
「かかる世に影も変はらず澄む月を 見る我が身さへ恨めしきかな」

そう、想像のつかない事件が起きるこの世の中でも、いつもと少しも変わらずに月が美しく澄んでいるものなのだ。

月を見て心が澄んでいくという西行だが、このままどこまで澄んでいくのか、私は一体どうなってしまうのか、と不安になると詠う。

西行の面白さは、仏教に強く憧れながらも、決して仏教に逃げ込まないことだ。ただその両面を、矛盾に見えようが、ブレようが、かまわずに表現することである。

「萩踏んで膝を屈めて用を足し 萩のはねくそこれが初めて」クソが跳ねて我が身についたぁ!(笑)。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。