「不如意の身体」

“不如意の身体”って言葉がいいなぁ。俺も使おうっと。

「障害学」という学問の分野があるんだ。知らなかった。
障害(者)を、医療やリハビリ、福祉、保護の対象という従来の枠から解放して、障害者が自身の経験や視点から、社会での立場を再構築しようとする試みの学問だって。健常者の視点で行われたこれまでの研究を批判することから始まる。

障害とは何か?公平な社会を前提に、我々は障害とどう関わっていけばいいのか?障害学の意味、障害者の生産性といったことの集大成みたいな分厚い本。読み応えがあったけど、面白いとはいえなかったな。

俺も、手帳を持つ第2級の身体障害者になるけど、不如意となってしまった右片麻痺の身体は、先天的なものではなく、いわゆる自分の不健康な習慣が原因となったわけだから、ちょっと引け目を感じてしまい、健常者の頃のような社会との関わり方は難しくなるってのは理解してる。

どんなにリハビリをしたとしても、多分、一生、この不如意の身体で生きるしかないので、障害を克服すべき(治すべき)ものと考え、健常者に引け目を感じるよりは、自身に与えられた特別な“個性”と考えたいが、まだまだその境地には達することができないでいる。

俺自身、障害者だけど、障害者が持つ世界観がキライだったりもするし。障害者がキライなのだ。このSNSにも片麻痺のコミュがあって、一部、俺も参加してるが、自分の役に立つことはまずほとんどない。同情のお仲間意識や愚痴、悲鳴など、建設的なことを感じられずに、社会に参加できない自分に苛立ちを覚えて、逆に不備な社会や健常者に対し、不満をぶちまけていることも少なくない。リハビリの例も、障害は人それぞれで違うから、モチベーションを上げることにはなっても、参考になることは少ない。

俺は、障害者は保護して守るべき存在であると考えたくない。弱い存在だと思われたくない。

自分の例でいうと、片手片足でほぼ何でもできるようになったし(確かに健常者の頃に較べればできないことは増えたけど)、動作は鈍くなるけど、今のところ生活に困ることもないと思う。生活の糧である収入の問題はあるが。

結局、障害者であっても、社会の中では“人間力”がものをいうと思うね。基本、障害者と健常者の垣根を越えるものは、コミュニケーション力、創造・想像力、感性、判断力、知識などの“人間力”だ。

社会の中で、健常者が譲るのではなく、先に障害者が譲ることがあっても良いのだ。障害それ自体はマイナスになることはあっても、そのことは障害者を否定することには決してならない。障害と障害者は切り離して考えるべきだ。

それぞれ、できる人ができることをやることが充分可能な社会、また、やる自由もあればやらない自由も保障される社会、個性と様々な能力によって、いろいろと異なる参加が可能な社会…それが理想なのだと思う。

社会は“自分でする”ことが前提となってることが多いけど、助けてもらう、代わりにやってもらう、別の方法でやる、やらない、ことも充分、可能とならなきゃならないだろう。

片麻痺とリハビリの関係だけど、障害を負う→治療で治す→リハビリで回復を図る→回復に近付ける→回復にこだわらなくなる→障害を受け入れる→リハビリの目的が回復から健康維持になる…という流れになるかなぁ。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。