「高峰秀子の流儀」

BOOKOFFで見つけたデコちゃん本。

品の良いおばあちゃんとなったデコちゃんの写真はちょっと…だけど、晩年のデコちゃん夫婦の養女となった著者が、デコちゃんの内面に迫った、とても興味深く読めた本であった。

高峰秀子は、50年に渡って300本以上の映画に出演したのだが、ついに最後まで女優という仕事を好きになれなかった。

しかし、与えられた役柄に命を吹き込む力を持っており、つまりは、人間に対する深い洞察と理解の上に立った演技が可能であった。それは役に入り込むことではなく、冷静に客観的に距離を保っていたからこそ、できたことなのだ。

映画の仕事のために小学校も満足に通えずに、文字を書くのでさえ覚束なかった彼女が、後年、名文家と呼ばれるようになったのも、そこから起因してると思う。

彼女の文章の特色は人柄そのもので、装飾やムダを徹底して削ぎ落とした短文、淡々として平明、そこに自嘲にも思える自己の客体化が成されている。演技と同じく、必ず、もう1人の自分を携えているのだ。

そして、引き際をわきまえている。50歳で女優引退を宣言すると、夫との日常生活をことの外大事にして、暇があれば、ベッドで読書に勤しむ日々を送る。時折来る出版社からの原稿依頼もギリギリまで渋った。

とにかく晩年の高峰秀子が大切にしたものは、何よりも夫とのフツーの日常だったのだ。

高峰秀子の、物事に動じない性格は、やっぱり幼少期の養母との関係があったからだろう。幼い頃から、養母に利用され、望まないのに、激しい渦巻きのような映画の世界の中に置かれ、欲望、虚栄、欺瞞を身近に感じて、常々、“深い穴の中でジッとしていたい”と考えていた自分を見失わないようにするには、物事に動じない、心を乱されないこと、それだけが彼女にできる唯一の自己防衛策だったのだ。

著者は、「この人にはあらゆることがどうでもいいのではないか」と書く。高峰秀子は、対人関係においてさえ、何も求めない、自分の業績にも、興味がない、という。

晩年の彼女にとって重要なことは、日々の暮らしを自分流に快適に過ごすこと、ただそれだけだったのだ。

「あんたが思うほど、人はあんたのことなんか気にしてないよ」。

女優の使命は、人間を演じることであり、決して媚びることではない。高峰秀子は、人間を理解し過ぎてしまったからこそ、無常を体現する、極端に欲の少ない人間になった。

人間には、①何もわからない人、②わかっているが実践できない人、③わかっていて、なおかつ実践できる人…がいるという。高峰秀子は当然、明らかに③の人だ。

高峰秀子の生き方とこの本は、エラそうな思想書や哲学書、指南書よりも、何十倍も勉強になったね。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。