メメント・モリ(memento mori)自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな
「死」ってどんなものだろう?
日常を生きていると、「死」は確実に自分の延長線上にあるというのに、どこか靄がかった、透明なカーテンの向こう側の話に思える。
私は、これまでの人生で一度だけ「死」に近づいた。つまり、カーテンの向こう側に首だけ突っ込んだ経験がある。
それは、乳がんが分かった直後のことだ。今から10年前、わたしが37歳だったときのこと。
主治医から告知を受けたそのとき、今までカラフルに見えていた世界が、一瞬でモノクロに変わってしまった。比喩ではなく、本当に、告知された後、世界から色が消えたのを覚えている。
それは、普通の世界から遮断されて、全く違う異世界に自分だけ飛ばされるような感覚だ。
もうあの世界には戻れないかもしれない、そう思うと恐ろしくて仕方がなかった。健康な世界で、普通に生きている人達が羨ましくて仕方がなかった。
そして、もう、優しい気持ちで桜を見ることはできないのかもしれない、そう思うととても悲しかったことを覚えている。
その後に、また普通の生活に戻り、カーテンのこっち側の世界で今は生きているけれど、カーテンの向こうのことを思い出すだけで、心はどっと重くなる。
「死」をのぞいたことがあるからこそ、言えることがある。
それは「死」というゴールに向かう道に待っているのは幸せではないということだ。悲しみ、嘆き、苦痛、苦悩、痛み。「死」に向かう上でありとあらゆるネガティブが道をふさぐ。
救いがないよね。本当に。でもね、これはまぎれもない事実。
先日、救命病棟の看護師さんと話す機会があったが、いわゆる「ピンピンコロリ」はほとんどないらしい。心筋梗塞や脳卒中などでお亡くなりになる方は、とてもとても苦しむそうだ。
うちは癌家系なので親族は癌で亡くなった人が多いが、やはり辛い最後が多かった。乳がんを経験してから人の闘病記を読むことが増えたが、みんな最後は壮絶だ。
早く終わらせてあげたい、そんなことを考えてしまうほどに。
だからこそ、思うことがある。
未来への心躍るメッセージじゃなくてごめんなさい。
でもね、「死」の重みを知っているから、同時に今を楽しむことの大切さもわかるんだ。
きっと多くの人は幸せに生きたいと思っているはずだ。
でも、忙しいとか、苦しまなきゃ成長しないだとか、成功するためにはがんばろうとか、色々な理由を付けて、楽しむことをさぼっている人がとてもたくさんいる。(かくいう私もそのひとりだ)
たしかに一生懸命にやることが必要な時期はある。
でも、それを続けてしまうと、目の前にある家族の笑顔とか、この1杯のために生きてるお酒の味とか、大切な人の手のぬくもりとか、いや、それぞれが幸せを感じることは違うと思うけど、それを忘れてしまうのではないかな。
そんな私自身も最近、気が付いたら、わき目もふらず苦手な事をがむしゃらに頑張っていた。頑張っていたが、苦手だからどうにもうまくいかず、どんどん深みにはまって……悪循環を繰り返していた。
そんな時に尊敬する方と話をしている中で投げられた、こんな一言で目が覚めた。
嫌なことから逃げ回っているという訳ではなく、苦手な依頼がきたら、「苦手だな」と自覚した上で、その時はがんばって対応する。でも普段は、苦手なことをやらなくてもいい方法を考えているそうだ。
ハッとした。
今ある状況の中で「自分を幸せにしてあげるにはどうしたらいいのか?」そこに全力を使ってもいいのかもしれない。
みんな最後は同じ道をゆく。どうせ辛い死に向かっていくのであれば、少しぐらい肩の力を抜いてもいいのではないかな。
自分の幸せのために、知恵を働かせてもいいのではないかな?もっともっと自分を大切にしてもいいんじゃないかな?
最後の「死」が冷たく怖いものであっても、その間にある「幸せな記憶」は決して変わらない。これはあくまで私の考えだけれど、幸せな記憶がたくさんあれば、どんな「死」を目の前にしても、わたしの人生は素敵だったな、幸せだったなと思えるんじゃないかな。
とはいえ、「死」のカーテンをのぞいたことがある私ですら、いつの間にか日常にぐるぐるにされて忘れてしまう。
カーテンの存在を知らない人が、目の前のことに一生懸命になってしまうのはあたりまえのことだと思う。だからこそ、私が尊敬する方の一言で思い出せたように、ちょっと心が重くなるけど、「死」のカーテンをのぞいた私が感じたことを、今回ここに書いてみようと思った。
最後が苦しくても、「思い返すと人生楽しかったわ~」って言えたら、きっと人生100点満点。そんな言葉を言える人が、自分も含めて増えいったらいいなと思う。定期的に思い出そう。
「メメント・モリ(memento mori)自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」
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