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デニス・レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』ネタばらしあり雑記

※この記事ではデニス・レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』の主要な部分のネタばらしがあります。この作品の読後、あるいはこれを原作にした映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』視聴後に読まれることをおすすめします。

本作は私立探偵パトリック・ケンジー&アンジェラ・ジェナーロ(アンジー)・シリーズの第四作である。ボストンの下町を舞台にしたこのシリーズは、作品を追うごとに変化していく二人の関係性が読みどころの一つだろう。決定的な関係性の変化はシリーズ中に幾度か訪れるが、本作において二人の関係性は最終的に決裂を迎える。

失踪した幼児(アマンダ・マックリーディ)の捜索が本作のメインストーリーである。そして二人は、クライマックスで大きな二択に直面する。社会正義を取るか、個人の倫理を取るか。すなわち、誘拐という不法行為に対して法に照らして親元に子供を返すべき(「真犯人」たちには子供をそのまま育てる資格はない)というパトリックの立場を取るか、誘拐先で幸せそうに暮らしている幼児をそのままでいさせるべきというアンジーの立場を取るか。誘拐された幼児は元々母親からネグレクトに近いことを受けており、親元にいたとき到底幸せな生活とは思われなかった。しかし、その幼児を捜索するために、関係者から複数人死者が出ており、流された血の量を考えるとそのままでいいのか、不法行為を犯している「真犯人」とともに幼児が暮らすのは本当に良いことなのか。そしてこれは言えるのだが、捜査関係者たちは子供の幸せを第一に考えており、誰も真の意味で子供に対しての「悪人」と呼べる人物がいないということだ(たとえ不法行為に手を染めていたとしても)。ここで、プロローグとエピローグの挿話が効いてくる。主要な捜査関係者の一人であるブルサードと妻レイチェルは、棄てられていた赤子を違法に自分たちの子供として育てていた。ブルサードの死後、レイチェルは子供を連れてアメリカ南部へ秘密裏に移住し、そこで血のつながらない子供を「犯罪的とも呼べる」愛のもとで育てている。アマンダの誘拐後の幸せと言える待遇と、その後再び親元へ返される境遇が、レイチェルとその子供の境遇と対比されているのである。自分がパトリックの立場だったらどのような選択が取れたのだろうか、と考えると、心情的にはアンジーの側に立ちたいが、結局はパトリックのような行動しか取れないのではないか、そしてそれは本当に「正しい」のか。これは自分に子供がいるいない、身近に子供がいるいないで変わってくるだろうし、読む人によってそれぞれ取る立場が違ってくるだろう。「答え」が出ない、というかそれぞれの人の立場によって「答え」が違ってくる選択と言えるかもしれない。きちんと作品を読むと、パトリックが社会正義の立場を取らざるを得なくなった理由が丹念に描かれている(と思う)。パトリックとアンジーの関係性が一旦決裂してしまうのも納得するしかない展開ではある。ただ、エピローグまで読むとレヘイン自身はアンジーの立場なのではないか、という感覚に陥るが、どうだろうか。

だいぶ感傷的になってしまったが、私のオールタイムベストに入る作品なので(読みが浅いのはお許しください)、どこかでネタばらしありで書いてみたかったという気持ちがあり……。

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