ジャン=パトリック・マンシェット作品についての軽い雑感
同人誌用にジャン=パトリック・マンシェットの各作品を紹介しようと考えていたが、自分の実力不足を痛感したので企画を変え、他のもので原稿を提出した。マンシェットの作品については優れた評論がインターネット上で閲覧でき、またそれぞれの作品の訳者解説も充実しているものが多い。そこに私が加えられるものが現時点であるか、それらの優れた評論に追いつくとはとてもじゃないが言えなくても、なんとか人が読める解題にできるか、と問われると、とても難しい。以下は軽い雑感である。
マンシェットの作品は場面場面が映像的であるが、それは固有名詞や普通ならおおよそで書いてしまう距離などの数値を具体的に書いているところにも由来するし、動詞を多用する文章にも由来すると思う。車や銃器、都市、道路の通りはどこを走っているかなどの具体名を出すことで、(知っている人には)それが場面に合っているのか不似合いなのか、釣り合っているのかいないのか、といったことなどが想像しやすくなっている。知らない人もそこまでは理解できなくても、喚起力がある。また動詞を多用することで、アクションが非常に思い浮かべやすい。しかも、その多用が文章に違和感のない形で描かれている。また非常に映像的でありながら、実際に映像化するには難しい作品が多い、ということにも読んでいて気づくだろう。文章の脳内での映像喚起力が強く、実際に映像化するとしたら何らかの手を加えない限り野暮ったくなってしまうのではないか。
マンシェットの書く作品は暴力描写を多分に含むが、著者がそれに溺れている印象はない。自分にはこんな暴力描写が書ける、といったひけらかしもない。時には淡々と、時には熱的に暴力を書き、暴力描写を完全に自身の制御下に置いているように思える。また、暴力の簡潔さ、も魅力のひとつだろう。あとに引きずらないし、暴力描写に感情を入れた書き方を一切しない。マンシェットの文体の特徴は、贅肉のない、極限まで削ぎ落され推敲されたものであり、ここにも由来するだろう。ハードボイルド小説という意味でもマンシェットの文体は完成されており、ノワール小説としても内容が完成されているのである。また、マンシェットは「暴力の本質」というものを理解していたのではないか、というすごみがある。そうでなくては『殺戮の天使』のような、あるいは『愚者が出てくる、城寨が見える』のような作品は書けないのではないか。ある方が『殺戮の天使』を「暴力小説からの飛翔を試みた」作品だとおっしゃっていたが、まさにその通りだと思う。
前もnoteの日記に似たようなことを書いたが、マンシェットの評論集『クロニーク』が仏語版しかないのは(英訳版すらない)、ミステリー小説界における文化的損失なのではないか、という気持ちがある。ネオ・ポラールの代表的作家(しかもマンシェット!)がアメリカン・ハードボイルド作品や作家について、あるいは自国のノワール小説について論じた評論集が広く読まれない状況にあるのは、ジャンルの読者にとっても業界にとっても損失なのではないかと思える。邦訳はさすがに難しいだろうから(欲を言えば翻訳してほしいが)、英訳が出るといいな、と感じる次第である。
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