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ビールともだち(『編集者・石川知実の静かな生活』)

 ビールにハマってもう八年ほどになる。
 学生の頃はあの苦味と炭酸が喉を通る感覚が苦手だった。サークルの飲み会ではいつもグレープフルーツ酎ハイばかり頼んでいた。
 それが変わるきっかけとなったのは、前の雑誌の編集部にいた時に、都内のクラフトビール店に連れて行ってもらったことだった。数人で連れ立って行ったので、内心気乗りしなかったのだが、ひとりだけ異議をとなえるのもはばかられたのでおとなしく付いて行った。
 その店では数種類のビールがタップで用意されていたが、あたしはその中でも飲めそうなフルーツビールを注文した。そして予想外の香りの芳醇さと、細かい泡が喉を通り過ぎる感覚に、すっかり虜になってしまったのだ。
「ビールって、こんなに美味しいものだって知りませんでした!」
「ともちゃん、意外とイケるクチだねー。今度はこっちも試してみる?」
 グラスが空になったあたしに、先輩が別のものを勧めてくれた。
「これはちょっとアルコール度高めで、ホップも強めだけど、とても香りが良いタイプだよ」
 あたしは小さめのグラスに注がれた琥珀色の液体をまずはしげしげと眺め、そして一口流し込んだ。
 苦味が喉を刺激したが、それは不快なものではなく、むしろ草木の瑞々しさを感じさせた。そして鼻腔には柑橘系の甘酸っぱい香りが広がった。
「美味しい!これはレモンかライムのビールなんですか?」
 先輩はにやにやしながらあたしを見て言った。
「はずれ、これはフルーツビールじゃないよ。このシトラスの香りは、ビールそのものの風味なんだ」
 そこから先輩による若干長めの解説が始まった。細かいことは忘れたが、発酵の過程で様々な香りが生まれ、それがビールの個性になるということらしい。そしてこうした個性的で少量生産のビールをクラフトビールと呼び、全国的に店も生産者も増えているということだった。あたしなどそれまで「地ビール」という呼び方しか知らなかったくらいだったので、先輩の話の情報量の多さにやや面くらいつつも、これがビールにハマるきっかけとなったので、今でもその先輩には感謝している。

 それから自分でもクラフトビール店をいろいろ開拓するようになり、翌年には「ビール検定2級」も取得した。検定といってもテキストを読んで筆記試験を受ければ取れるので、それほど難しいものではなかったが、勉強の過程でビールに関する様々な知識を得ることができ、よりビールを楽しむことができるようになった。
 休みの日に健太と出かけた時も、それまでは喫茶店やケーキ屋を探していた代わりにクラフトビール店を探すことが多くなった。彼はもともとビールはイケるクチだが、これまでもっぱらサッポロばかりだったのが、あたしがビールにハマるのにつられてクラフトビールにも目覚めた。
 コロナになって都内の飲食店は軒並み酒類の提供ができなくなった時は、健太と一緒に千葉や埼玉のクラフトビール店やブルワリーの開拓にいそしんだ。そのうち千葉や埼玉でも酒類の提供ができなくなると、さらに茨城、栃木、群馬、山梨まで足を伸ばした。健太はお城めぐりが好きなので、日中はハイキングがてらお城に登り、そのあとお目当てのビールを飲みに行くという小旅行が、この頃の週末の過ごし方だった。
 今では地方に取材に行くと、必ずその地方のビール店を訪ねるのが定番のコースとなった。健太も学会などで地方に行くたびに、いろいろ飲み歩いているようである。

 あたしには長い付き合いのビールともだちが一人いる。内藤君といって、あたしより六つ年下の写真家だ。彼と知り合ったのはちょうどあたしがビールにハマり始めた頃で、雑誌の仕事で一緒になったのがきっかけだった。その時は神戸で取材があり、東京からカメラマンが同行する予定だったのだが、急病で来られなくなり、急遽、関西在住の内藤君に来てもらうこととなったのだ。
 彼はその時まだ二十五くらいの、学生の雰囲気が抜けないおぼこい雰囲気の青年だったが、写真の腕は確かだった。無事にその日の仕事を終えて、夜に三宮のクラフトビールを出すバーに誘ったのだ。彼も偶然にもクラフトビールにハマっていたので、すっかり意気投合したのであった。
「向井さん、もう明日帰りはるんですか?」
「ええ。でも明日は移動日にしておいたので、午前中は少し神戸でゆっくりしてから帰ろうかと思うわ」
 そう、あの時はまだ籍を入れる前だったので向井姓だったのだ。
「……向井さん、もし良かったら、明日僕のモデルになってくれませんか?」
 あたしは驚いて彼の目を見たが、彼もまっすぐあたしの目を見つめていた。
「モデルって言うても、そんなたいそうなものではありません。この神戸の街を背景に、たたずんでいるところを僕に撮らせていただきたいんです」
「……ええ、でも、あたしモデルになるほど美人でもないし、そこそこ年だし……」
「いえ、向井さんはすごく素敵な女性ですよ。そして神戸がすごく似合うと思います」
 内藤君の若さの熱意に押されて、あたしは翌日にモデルを引き受けることとなったのだ。
 次の日の朝九時には、あたしが泊まっているホテルのフロントまで内藤君が迎えに来た。あたしはそのままチェックアウトして荷物をホテルに預け、二人で徒歩で北野に向かった。
 洋館が立ち並ぶ、坂の多い街並みを背景に、内藤君は手際良くシャッターを切っていった。内藤君は特にあたしにポーズの指示などせず、ただ「カメラを見て微笑まなくても大丈夫ですから」と言うだけだったので、あたしは自然体で街中を散策した。しばらくしてからタクシーを捕まえてハーバーランドまで下り、海を背景に撮影をしたところで、「そろそろ休みましょうか」と内藤君が声をかけ、撮影終了となった。
 そのままハーバーランドのイタリアンの店に入り、ランチを取ることにした。まだ十一時過ぎなので店内は空いていたが、朝から慣れないことをしたのであたしはすっかり空腹になっていた。
 内藤君はノートPCで、先ほどまでに撮影した写真をスライドショーで見せてくれた。自分の姿を写真で見るのは少し気恥ずかしかったが、彼が撮った写真は、あたしが背景の一部になったような感じのものが多く、またどことなく哀愁を漂わせるものが多かった。
「素敵……」
「気に入っていただけてうれしいです」
 それ以来、あたしが関西方面に取材が入る時は彼に連絡して、都合が合えば一緒にビールを飲んだり、撮影してもらったりするようになった。あたしも大学が京都だったので、彼の関西弁の優しいイントネーションを懐かしく感じ、彼自身にも好意を抱くようになった。

 それでも彼から「撮影旅行に行きませんか?」と誘われた時には、さすがにあたしも躊躇した。それはきっと二人で泊まりがけで出かけることを意味するのだろうから、一線を越えてしまうのではないかと思った。でも彼は、
「部屋は別々にとりますし、けっしてよこしまなことはしませんから」
と言うので、あたしは後ろめたさを感じつつ、承諾したのだった。ちょうどまた京都で取材の予定があったので、その翌日に有給を取り、琵琶湖に行くことにしたのだ。
 健太には取材に行っていると伝えた。
 その一日目。彼は車であたしを迎えに来てピックアップし、そのまま琵琶湖の湖西道路を北上した。琵琶湖も北の方に行くと水が透明に澄んでいて、あたしたちはマキノの湖岸やポプラ並木で撮影をした。さらに琵琶湖の北を巡って長浜に入り、ホテルにチェックインした。ホテルは彼が予約をしており、約束通り別々の部屋を取ってくれていた。そしてその夜は長浜のレトロな街で「長濱浪漫ビール」を堪能した後、おとなしくそれぞれの部屋に帰って床についた。
 二日目は車で伊吹山ドライブウェイを登り、山頂のお花畑を散策して写真を撮った。そして山小屋のようなレストランでうどんを食べた後、内藤君は車であたしを米原駅まで送ってくれた。約束通り、清い「撮影旅行」だった。
 それ以来、一年に一回のペースで内藤君との「撮影旅行」は続いた。そして今年も、岡山に誘われたのだった。

 備前焼の取材を終えたあたしは、タクシーでJRの日生駅に向かった。駅前ではすでに内藤君が待ってくれていたので、そのまま彼のアルファロメオに乗り込み、目的地の牛窓に向かった。
 途中、長い橋から見えた、瀬戸内海に浮かぶ養殖いかだの整然とした光景が目に入り、あたしはうっとりとした。そのまま車は長い山道に入り、それを抜けたところでふたたび瀬戸内海の景色が目の前に広がった。
 牛窓は日本のエーゲ海と呼ばれているそうだ。確かにその名に恥じないくらいの、紺碧の海に島々が浮かぶ美しい光景であった。あたしたちはそれが一望できる丘の上の公園に車を停め、オリーブの段々畑の小道を歩きながら、写真を撮った。
 売店で買ったソフトクリームを食べてしばらく休んだ後、牛窓の市街地に下って、海に面した「ホテル・リマーニ」にチェックインした。地中海がコンセプトの、白い壁のホテルである。
 いったんそれぞれの部屋に荷物を置いた後、内藤君の部屋で撮影の続きをすることになった。海の見えるベランダ、窓際のソファーで写真を撮った後、あたしは真っ白なシーツがピンと張られたベッドに横たわった。それを内藤君のカメラが追い、シャッターを切っていく。
 横になるあたしと、カメラを構える彼の距離は、ほんのわずかである。あたしはカメラのレンズに手を伸ばし、それに触れるような素振りをした。彼は黙ってシャッターを規則正しく切っていく。もしこのまま彼の頬に触れたら、彼はどうするだろう。そんな妄想が頭に浮かび、あたしは密かに欲情した。彼も同じように、あたしに欲情しているのだろうか……そんなことを思っていると、ふとこの妄想が写真に写ってしまうような気がして、急に恥ずかしくなった。
 部屋での撮影が終わり、夕食の時間までそれぞれゆっくりすることとなった。あたしは展望浴場で湯につかってリラックスし、風呂上がりに軽いメイクをするとちょうど食事の時間となったので一階に降りた。
 夕食は地中海料理のコースで、あたしたちは乾杯のスパークリングワインだけ頼んだ。言うまでもなく、このあとクラフトビールの「部屋飲み」が控えているからである。
 海の幸を中心とした料理を堪能した後、あたしたちはふたたび彼の部屋に入った。冷蔵庫には事前に買っておいた岡山のクラフトビールが用意されている。
 
 岡山のクラフトビールといえばまず何と言っても宮下酒造の「独歩」だ。特徴的なずんぐりむっくりのボトルに、今回用意したのは「ピーチピルス」と「マスカットピルス」、どちらも岡山を代表する果物を用いたフルーツビールだ。さらに燻製の匂いが香ばしい六島浜醸造所の「ラオホ」、ラベルのオオサンショウウオのイラストが可愛い美作ビアワークスの「山椒ビールはんざきエール」、レモンの香りがさわやかな吉備土手下麦酒醸造所の「日生檸檬の麦酒」が並ぶ。
 ビールを飲みながら、今日撮影した写真をノートPCのスライドショーで見た。オリーブ畑にたたずみ、無表情にこちらを見つめるこの女性が自分なのかと思うと不思議な気がする。
 そして部屋でのシーンに移る。今ビールを飲んでいるまさにこの部屋が画面に映し出されている。そしてベッドに横になっているカットが出てきた。
「エロ……あたし」
 思わず心の中でつぶやいた。そこに写っているのは、目がトロンとし、口が半開きになっているあたしの姿であった。瞳孔が開いている。髪の毛も乱れ、一条の前髪が汗で額に張り付いている。ワンピースを着ているので露出度はゼロだが、これはへたなヌードよりエロいのではないか。
 スライドショーも何周目かに入り、ビールもすべて空になったので、あたしはおいとますることとした。ほろ酔いで立ち上がり、
「おやすみなさい。明日もまたよろしくお願いします」
と彼に告げた。彼はうなずき、いつものようにあたしを軽くハグした。あたしはそのまま彼の部屋を出て、自分の部屋に向かった。
 これまで何度も一緒に旅行に行ったが、彼と触れ合うのは、いつも寝る前と別れる時の軽いハグだけ。彼があたしとの関係を大事にし、それが壊れないようにしてくれていることに感謝しつつ、あたしはルームキーを自分の部屋のドアに当てた。
 
 

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