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知実の能登半島取材記(『編集者・石川知実の静かな生活』)

 2024年1月1日は忘れられない日となった。能登半島地震が起こった日である。
 あたしと健太は正月は京都で過ごしていた。ちょうどお風呂に入りに行こうとした時に揺れた。あたしはすぐに気付いたが、健太は最初気付いてなかったようだった。
「健太、揺れてるよ!」
 あわてて二人で部屋の柱にしがみついた。揺れは激しくなかったが、けっこう長い時間、揺れていたような気がする。泊まっていたのが老舗の旅館なので、木造の建物がきしんで恐怖心を覚えたが、揺れが収まった時は本心から安心した。2011年3月11日の東日本大震災のことを思い出した。
 その後はテレビも能登半島地震一色となった。翌日は健太の実家で過ごしたのだが、夕方に羽田空港で日航機と海上保安庁の飛行機との衝突事故が起きたニュースを見ている時は、2001年9月11日の同時多発テロのことを思い出した。

 能登半島地震はあたしの務めている『アートライフ』にも影響が大きかった。地震の被害が大きかった石川県、富山県はまさに工芸技術の宝庫である。国の重要無形文化財に指定されている輪島塗を始めとして、蒔絵、珠州焼、加賀友禅、縁付金箔、金沢仏壇、高岡銅器など枚挙にいとまない。それに加えて、ユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されている「あえのこと」や「あまめはぎ」、さらには重要無形民俗文化財に指定され、NHKの朝ドラ『まれ』で田中泯が演じたことで知られるようになった製塩の技術などの多様な無形の文化財、文化遺産が存在するのが、今回の被災地である。
 幸いなことに、これまで『アートライフ』で取材したことのある加賀友禅や高岡銅器の関係者は、無事で、かつそれほど大きな被害はなく、操業を継続出来そうとのことであった。しかしかつて『アートライフ』で特集を組んだことのある珠州焼や、各種の報道でも伝えられている輪島塗については、その被害は深刻で復興にどのくらい時間がかかりそうかはまったく分からないとのことであった。

 あたしたちの雑誌『アートライフ』は隔月号なので、3月号で能登半島地震の影響についての特集記事を掲載した。ただしこの段階では現地取材は出来ておらず、その内容は電話やメールを用いた取材の結果に限られた。
 5月号の編集会議の中で、小早川編集長は強い口調でこう主張した。
「今号では被災地の現地レポを必ず掲載します!」
 この会議で小早川編集長はあたしのことを名指しするように視線を向けてきたので、これはあたしがやるしかない。そこであたしは、金沢在住のライターの羽根さんに連絡を取った。彼女は地元で取材コーディネーターもやっており、これまで何度もお世話になった人だ。
 聞くと、彼女の実家は奥能登の能登町で、幸いなことに実家の家族も家屋も無事だったが、実家周辺は現在でも大変な状況が続いているという。ただ案内については大丈夫で、むしろ現状を多くの人に知ってもらいたいと取材にもたいへん協力的な様子であったのがありがたかった。

 三月下旬、延伸して行き先が「敦賀」となった北陸新幹線に乗り、正午少し前に金沢駅に着いた。駅ビルの中の蕎麦屋で昼食を済ませ、午後一時に金沢駅西口に出て待っていると、羽根さんが迎えに来てくれた。
「石川さん、おひさしぶりです!」
「羽根さん、このたびはお世話になります。大変なところありがとうございます」
「いえいえ、さあこちらへ」
 羽根さんはショートカットでパンツルック、ぱっと見は宝塚の男役のようなかっこいい系女子であるが、声に透明感があって癒される。地元ではナレーターとしても活躍しているそうだ。
 彼女のパジェロの助手席に乗せてもらい、あたしたちは北に一路、能登半島に向かった。道すがら、彼女から今回のプランの概略を聞いた。お寺と神社、そして地域の旧家でそれぞれインタビューのアレンジをしてくれているとのことである。いずれも地域の文化財を所蔵しているのだが地震で大きな被害を受け、その文化財を守っていくのもままならない状況なのだという。それに加えて、現地で活動中の国立文化財防災センターの担当者にもお話を伺う機会をとってもらったとのことだった。国の方でも、災害によって被害を受けた文化財をレスキューするための組織を作っており、博物館や地域の方々が所蔵する文化財を救済するための活動を行っているという。
 今回の取材のポイントは、自然災害によって被害を受けた文化財をどのように守るか、というところである。当初のあたしの企画では、輪島塗や珠州焼の生産者たちにインタビューすることに焦点が当てられていたが、小早川編集長から修正指示が入った。
「石川さん。あなたが前の雑誌でやった東日本大地震のレポート、ボクはあれを読んで感動したので、ああいう路線でやって欲しいんだ」
 ただ今回は根本先生を通じたボランティアの組織は作られておらず、現地に入るためのツテがなかったので、羽根さんに事前に記事を送って、今回の取材のポイントを伝えておいた。そして彼女は短い期間ながらも、最良のアレンジをしてくれた。今回の取材がうまく行ったのは、ひとえに彼女のおかげだ。

 車はのと里山街道を北上する。左側には日本海が見える。たしかこのあたりの砂浜は車で走れるところがあったはずだ。以前、珠洲市に取材に行った帰りに通った気がする。そうこうするうちに羽咋市を過ぎ、車は山間部の道に入っていった。
 するとこのあたりから地震の傷跡をあちこちに見るようになった。ところどころ道路がひび割れ、特に橋との継ぎ目のところはかなり段差になっているところが多かった。それを羽根さんは慣れた様子で、スピードを緩めて乗り越えていく。パジェロなので衝撃も少なかったというのもあるが、普通の車だとうっかりすると底を擦ってしまいそうだ。
 さらに内陸部に進んでいくと、いたるところで道路が崩落していた。とりわけ谷間を土盛りしたところはごっそりと削られたようになっていて、ガードレールだけが宙に浮いているという光景に唖然とした。もちろんそういう箇所は迂回路が設けられているのだが、こんな状況のため徳田大津ICより以北は往路のみの片側通行となっていた。
「のと里山街道の方が被害が大きいんですよ」
と羽根さんは巧みなドライビングで平然と悪路を乗り越えながら言った。
「ここは高速道路なので地形を無視して道を通している分、地盤が弱いところなどが多いのだと思います。帰りは地道になりますが、そちらの方が古い道なので意外と被害が少なかったんです」
 やがて車はインターを出て地道を走り、しばらく走ったところで集落にさしかかった。いくつかの建物は屋根瓦が落ちて屋根がブルーシートで覆われているのが見えた。ここまで来るのに金沢から三時間ほどかかっただろうか。
「今日は遅いのでまず宿にチェックインしてしまいますね」
 車は一軒の民宿の前に止まった。「柳田荘」と記した看板がある。見ると建物の周囲には落下した瓦の破片が散らばっていたが、建物自体は無事のようだ。
「おばさん、こちらが東京から来た石川さん。よろしくね」
「これは遠いところをありがとうございます」
「お世話になります。石川と申します。大変な時期ですがよろしくお願いいたします」
「こちらこそ何のお構いも出来ず、ご不便をおかけしますが、ゆっくりしていってください」
 この民宿は羽根さんの親類が営業されているとのことだ。女将さんに部屋を案内してもらった。二階の六畳間で、縁側も付いている。一人で泊まるには十分な広さだ。なお他の部屋には、復興関係で現地入りしている人たちが、一部屋に二、三人ずつくらいで泊まっているそうである。それを思うと少し申し訳ない気持ちになった。
「お風呂は、先週までは女湯が使えなかったのですが、今週から使えるようになりましたし、今お泊まりのお客さんで女性の方は石川さんだけなので、ゆっくり使ってください。いちおう十時には閉めてしまいますが、もし帰りが遅くなるようでしたら電話ででもお伝えください」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「あと申し訳ないのですが、まだ食堂が使えないので、お食事は提供出来ません。すみませんがご自身でまかなってください。冷蔵庫と電子レンジは、廊下に出しているものを使っていただいて大丈夫です」
「ありがとうございます」
「では石川さん、まずは夕食と、明日からの予定のミーティングを済ませてしまいましょうか」
 あたしは荷物だけをひとまず部屋に置き、ふたたび羽根さんの車で出かけた。
 車はまず、宿から五分くらい走ったところにあるコンビニの駐車場に停まった。ここで明日の朝食を買っておくのだという。
「コンビニも夜七時までの営業なので、早めに朝ごはんを調達しておきましょう」
 羽根さんにそう言われたので、あたしはサンドイッチとインスタントコーヒー、さらに今日の寝酒のために缶ビールを購入した。
 その後、二人でコンビニの向かいにあるラーメン屋に入った。まだ夕方の六時前であったが、すでに満席だったので十分ほど待った。見ると意外と家族連れの客が多かった。
「けっこう地元の方が来られているんですね」
「ええ、まだ町内でも水道が復旧していない地区がけっこうあるので、こうして温かい食事が取れるところが限られているんですよ」
 それを聞いてあらためて水道の大事さが分かった。給水車などで真水が手に入っても、料理をするには野菜を洗ったり食器を洗ったりする水も他に必要だ。多くの地区ではもともとプロパンガスだったのでガスはすぐに回復し、電気も比較的早く回復したそうだが、火は使えても水が限られていると調理出来る料理も限られるだろう。地震が起こって二か月以上たっても、まだまだインフラの復旧がままならない現地の状況に、心が痛んだ。
 こちらのラーメン店は石川県に多いチェーン店とのことで、あっさり目のスープが美味しかった。食事を取りながら、羽根さんは明日からの予定について話し始めた。
「明日の朝一に、まず町内にあるお寺に行きます。そこは本堂は無事だったのですが、ご本尊が台座から落ちて壊れてしまいました。そして本堂の隣にあった八幡堂という建物が倒壊してしまって、仏像や曼荼羅などが埋まったままになっています。こちらの現場を見ていただき、ご住職の話を聞いてもらえるようにアレンジしています。その後は町内の神社に伺います。こちらは宮司さんはもともといらっしゃらないのですが、地元の町内会長さんにお話を伺えることになっています。ここでは拝殿の屋根が壊れて、町指定文化財になっている絵馬が雨に濡れてカビが発生している状況です。その後、お昼ごはんを食べてから、隣の市の旧家に伺います。ここには郷土の資料がたくさん所蔵されているのですが、蔵と母屋が損壊してしまって、その中にあった資料をどうするかが問題となっています。家主の方は今は金沢に避難されているのですが、明日はこちらに戻られる予定なので、お話を聞かせていただくことになっています」
「本当に色々とありがとうございます!」
「明日は盛り沢山ですね。そしてあさっての午前は国立文化財防災センターの担当者の方から話を伺えることになっています。その後、お昼ごはんを食べてから、金沢の方に戻る予定です。帰りは地道になるので、ちょっと時間に余裕を持っておいた方が良いと思います」
 あたしは彼女に心から感謝した。これほどの取材アレンジは、とても自分だけでは出来なかっただろう。そして彼女自身も、この取材を通じて自分の故郷である能登の現状を知ってもらいたいという強い熱意を持っていることが感じられた。その彼女の期待に応えるべく、あたしも真剣に取材をしなければ……と決意を新たにした。
 この日は食事を終えた後、羽根さんに民宿まで送ってもらい、解散となった。さっそくお風呂に入ったのだが、驚いたことにかけ流しの温泉だった。能登町でもこのあたりは地震の被害が比較的少なく、水道などのインフラもすぐに回復したので、こうしてあたしのような外から来た人間でも快適に過ごすことが出来るのだと思う。
 お風呂から上がってからは、小一時間ほどメールをチェックして返信をしたりしつつ缶ビールを飲み、十時前には床についた。部屋の中にカメムシが何匹も入ってきたのには閉口したが、疲れもあったのですぐに眠りに落ちた。

 翌朝は八時半に羽根さんが迎えに来てくれた。彼女の車に乗り、三十分ほどかけて一番目の取材先であるお寺に向かった。お寺は山際に建っており、参道にある石仏はほとんどが倒れて、首が取れてしまっているものもある痛々しい状況だったが、山門は無事のようだった。その脇を通り過ぎて境内の駐車場に車を停めると、本堂と八幡堂の様子が明らかになった。本堂は見た感じでは無事だったが、八幡堂は上から押しつぶされたような状態で倒壊しており、屋根が直接地面に伏せているような有様だった。
 住職さんが出迎えてくれたのであたしたちは挨拶を交わした。住職さんは六十代くらいの方で、お寺に隣接した敷地に建てられた住宅にお住まいで、そちらはほとんど無事だったとのことである。あたしたちは住職さんの案内で、まずは本堂に入らせてもらった。
 事前に聞いていたとおり、本尊の仏像が地震で倒れて一部が壊れており、台座から降ろされて外陣に仮置きされていた。他にも小さな仏像や仏具などが外陣に並べられていた。本堂は倒壊こそ免れたが、地震で相当傷んでおり、修理が必要だという。そのためこれら仏像などもいったん別の場所に移す必要があるのだという。
 続いてあたしたちは八幡堂に案内された。この中にはいくつかの小さな仏像や曼荼羅、さらに仏具や経典などが収められていたのだが、今となっては取り出すことも出来ない状況だという。住職さんの話によると、数日後にボランティアの人たちが屋根に穴を開けてくれて、そこから仏像などを救出する予定とのことだ。それにはまずは瓦を取り外し、その上で屋根にチェーンソーで穴を開けることになる。また穴を開けても、中はいつ建物が崩れてもおかしくない危険な状況なので、安全に配慮して作業を進める必要がある。そのため、作業にどのくらい時間がかかるか読めないという。
「うちの寺で文化財になっているのは本堂と山門とご本尊だけです。でも他の仏様も、私らや檀家さんたちにとっては大事なものです。時間がかかっても、出来る限りはお救いしたい……と思てます」
 住職さんは落ち着いた口調でそう語ったが、その心中は悲しみにあふれていることを推察した。
 あたしがボランティアで参加した東日本大震災の文化財レスキューでは、レスキューの対象となった文化財の多くは博物館や資料館などの公的な施設に収蔵されていたものだった。一方でこの能登では、お寺や神社、そして個人の住宅といった公的な施設以外のところに、多くの文化財やそれに準じたものが所在し、それらが大きな被害を受けてレスキューを待っている状況だということが分かった。

 次にあたしたちが向かったのは、そこから車で十五分ほどのところにある神社だった。神社といっても宮司さんがいるような大きなものではなく、集落の鎮守の杜にあるほこらといった感じだった。ただ石造りの鳥居は立派なもののようだったが、今となっては倒れてばらばらになっていた。
 鳥居があった場所を乗り越えて、石段をしばらく登ると、木造の拝殿にたどり着いた。そこで町内会長さんが待っていてくれた。
 町内会長さんの案内で拝殿の中に入れてもらった。入って右側には古い神輿が置かれており、左側の鴨居には大きな絵馬が掲げられていた。そして奥にはミニチュアのような神社の建物が置かれていた。町内会長さんによると、これが神社の本殿であるとのことだった。
「この絵馬が町指定の文化財になってるんですけど、雨漏りで濡れてしまって、カビが生えてきてるんですわ」
 絵馬は畳一枚ほどのなかなかの大きさのもので、捕鯨の様子が描かれていた。漁師たちがいくつものカヌーのような小さな漁船に乗って、巨大なクジラに立ち向かっている様子を俯瞰で描いたその様子は、迫力にあふれたものであるとともに、この地域の人々の営みが伝わってくるようだった。町内会長さんによると幕末に描かれたものであるという。
 拝殿の屋根にはブルーシートがかけられて応急処置がされたので、雨漏りは止まっているが、もともと湿気が多い環境なので絵馬に生えたカビは一気に広がってしまった。絵馬の板の一部には反り返ってしまっている箇所もあった。
「先週、国立文化財防災センターの方々が来られて、絵馬を取り外して一時保管庫に運ぶ段取りを付けてくれました。ただやはり人手が少ないようで、保管庫にスペースを確保したりするのにも時間がかかっているようですわ」
 確かに畳一枚ほどのこの絵馬を取り外して運ぶのは簡単とは言えないだろう。あたしは絵馬といったら願い事を書く五角形の小さな板を思い浮かべていたので、これを見るまでその大変さが分からなかった。
「昔はこのあたりも捕鯨でけっこう栄えていて、その名残りで大きな蔵を建てた家が何軒も並んでます。今はさびしい田舎になってしまったけど、この村がにぎやかやった頃の記憶として、この絵馬だけは残していきたいと思てます」
 町内会長さんの言う通り、この絵馬にしても歴史資料や文化財としての価値だけではなく、この地域の人たちにとっての特別な価値があるものなのだと、あらためて気付かされた。

 午後の旧家での取材は二時からの約束だったので、それまでにお昼ごはんを済ませることにした。
「ちょっとこのあたりは食べ物屋さんが少ないので、お弁当を買うことにしますね」
 そう言って羽根さんはドラッグストアに連れて行ってくれた。ドラッグストアといっても最近はお惣菜や生鮮食品も売っていて、ちょっとしたスーパーと変わらない品揃えだ。
 お弁当コーナーに行くと、すでに品薄となっていた。お客さんも作業着を着た人たちが多く、復興関係で来ているのだと分かる。中には他県の市町村名が入った作業着の人たちもいるので、おそらく応援で来ている行政関係の人たちなのだろう。
 あたしはなんとかお弁当をひとつ確保した。見るとごはんとミートボールしか入っていなくて、「ミートボール弁当」と書いてあった。けっこうなボリュームだがこれで三百円。肉体労働に従事する人たち向けのスタミナ弁当という感じだが、さすがに野菜も欲しかったので、お惣菜コーナーにあったきんぴらごぼうのパックを買った。
 晴れていたので、港まで行って海を見ながらお弁当を食べることにした。羽根さんも唐揚げがぎっしり詰まったお弁当を買ってきていた。
「羽根さんは、最近はやっぱり今回のような震災関連のお仕事が多いんですか?」
「そうですね、家は金沢なのですが実家が能登町なので、こういう仕事がある時は金沢と能登を往復して週のうち半々で生活しているような感じですね」
「倒れたままの家も多いし、道路も傷んでるので、復興は大変そうですね」
「正直……一年たってもどれだけ復興が進んでるかな、って私は思っています。能登は半島なのでアクセスも悪いですし、そう簡単に重機も入れられないし、そもそも作業してもらう人たちが泊まる場所も十分じゃないですからね」
「復興が進んでいないって、非難する人もけっこう多いですよね」
「私も地元の人間の立場からすると、復興のペースが遅いって、政治家や行政に文句を言いたくなる時もあります。でも行政の人たちにしても自分たちも被災者で、それでも頑張って働いている姿を見ていますから、逆に誰かが文句を言っているのを聞くと、そうじゃないんだよ、ってかばいたくなりますね」
「あたしも現地に来て、初めてそのことが分かりました」
 お弁当の量はやはりなかなかのものだったので最後はフードファイトっぽくなったが、それでも全部残さず平らげた。見ると羽根さんもあの唐揚げの山をすべて平らげていた。
「なかなかの量だったでしょう?」
「はい、羽根さんこそ。でも羽根さん、細いですよね!」
「しょっちゅう動いているからですね。太ももとか、けっこう筋肉が付いて太いですよ」
「えっ……触ってみてもいいですか?」
「どうぞ!」
 あたしは彼女の太ももに手を当てた。確かに硬くて引き締まっているのが分かった。実際に触ったことはないが、ライオンなどの猫科動物の筋肉を彷彿とさせた。

 午後は車で一時間ほどかけて、能登半島の北の海岸の方へ移動した。途中はけっこう険しく細い山道で、本来なら広い道でもっと早く行けるのだが、そちらの道が通行止めとなっているので迂回しなくてはいけなかったのだ。
 山道を抜けると海が見えた。そして車が海岸沿いの道に出ると、目の前に広がっているのはすさまじい光景だった。
 あたしにはそれが、白骨が散乱して一面に広がっている異世界の光景に見えた。しかし現実のそれは、地震のために隆起してすっかり変わってしまった海岸の状況だった。
 白骨のように見えたのは、岩礁に付着していた貝やフジツボなどの殻であった。本来であればそれらは水面の下に位置していたのが、数メートルも地盤が隆起したため、すっかり陸上に出てしまったのである。
 あたしはあらためて自然の力の大きさに圧倒された。これほどの地形の変化も、地球の長い歴史から見ると、寝返りをうつほどの些細な変化なのかもしれない。
 あたしたちは海岸沿いに立つ一軒の家の前に車を停めた。すでにそこの家主の方が表まで出てきてくれていて、あたしたちを出迎えてくれた。年齢は七十代くらいだろうか。
「まだこのあたりは電気が来てないので、暗いまんまで申し訳ないですけど、まずはお上がりください」
 家主さんはアウトドアで使うようなランタンに火を灯すと、薄暗い家の中がほのかに照らされた。見ると、あちこちに骨董品や民具が並べられているのが分かった。
「一見、建物は無事に見えるんですけど、調べてもらったら「中規模半壊」ということでした。それで今日は市役所の方に行って、午前中は手続きをしてきたんです」
「中規模半壊というと、公費解体の対象になるんですよね」
「はい、先祖から受け継いで、私も小さい時から慣れ親しんだこの母屋を壊すのは忍びないですけど、かといって直すのも難儀ですからね」
 家主さんの話によると、今は金沢にある娘さん夫婦の家に避難して住んでいるのだという。建物は住むには危険な状態で、電気も水道も回復していないので、やむを得ないという。それで週に一回のペースで、ここまで通って家の中の片付けをしたり、市役所で色々な手続きをしたりしているのだという。
「まあ、まずはうちの中にあるもんを、ざっと見ていただきましょうか」
 家主さんはランタンを手に立ち上がり、並べられた骨董品や民具を照らした。今いる座敷にも所狭しと色々なものが並べられているが、隣の座敷にもさらに色々なものが並べられているようだ。
 それらは珠州焼や九谷焼といった陶磁器であったり、あるいは掛軸が入っているとおぼしき桐箱だったり、あるいは漁具や農作業に使う道具であったりと、さながら郷土資料館のようであった。
 これらの品は、収められていた蔵が地震で崩れかけて危険な状態なので、めぼしいものを母屋に運んで並べたのだという。
「うちとこにあるものは、文化財とか歴史資料とかいう意味ではそないに貴重なものはないと思います。ただどれも、私らの先祖がここに住んできて、生活に必要やったから残してきたものです。ゆってみたら、これらはまとめて奥能登の人々の生活を表す文化財やと、私は思てます」
 たしかに、これらは単品の資料の価値から見ると、文化財として指定されるほどの「価値」はないのかもしれない。しかしこれらはセットとして存在することではじめて、価値あるものになるのだと思った。
「本当のこと言うたら、これを博物館なり資料館なりでまとめて引き取って頂けたら、ありがたいことやと思てます。地震が起こる前にも、県の博物館の方が来てくれて、すごい価値あるもんやと言ってくれました。ただ博物館にしても収蔵のスペースの問題とかあって、なかなかすぐに話が進まない間に、今回の地震があってこんな風になってしまったのですわ」
「もし公費解体ということになったら、これらの資料はどうなるのですか?」
「まあ……めぼしいものだけ回収して、あとはそのまま置いておくしかないでしょうね」
「そのまま置いておくというと……」
「……まあ、あきらめるしかないということですね」
 予想していたことであるが、あたしはやり切れない思いになった。つまり残された資料は、建物と一緒に瓦礫として処分されてしまう運命をたどることになるのだ。

 今日一日の取材内容は本当に盛りだくさんで、あたし自身なかなか消化し切れないところもあったが、ひとまずは宿に戻ってきた。すでに夕方の五時頃になっていたが、今夜も羽根さんが夕食の場所をアレンジしてくれているので、いったん部屋に荷物などを下ろした後にひと休みし、六時にあらためて羽根さんが迎えに来てくれた。こんどは車ではなく徒歩である。
「ここから歩いて五分ほどの食堂に行きますね」
 きっと羽根さんは飲む気まんまんなのだろう。
 案内された食堂は、何の変哲もない食堂といった雰囲気のところだった。「加藤食堂」という何のひねりもない店名もいさぎよく、爽快ですらある。
 七十代くらいの女性が出てきて、サッポロの赤星の瓶と突き出しをテーブルに並べてくれた。注文を取ることもなかったので、今日のメニューはおまかせなのだろう。
「石川さん、おつかれさまでした!」
「羽根さんこそ、ありがとうございました!」
 あたしたちはコップに注いだビールで乾杯した。羽根さんはそれを一気に飲み干し、すかさずあたしは空になったコップにおかわりを注いだ。
 しばらく突き出しを肴にビールを頂いていると、一人の男性が店に入ってきた。
「羽根ちゃん、今日は水揚げがあったからお魚のおすそ分けをもらってきたよ」
「チーさん、ありがとう!」
 その男性はあたしたちのテーブルの上に、ビニール袋に入れられた大皿を置いた。ビニール袋と、皿にかかっていたサランラップを取ると、そこには色鮮やかなお刺身が並べられていた。
「チーさん、こちらが『アートライフ』の石川さん。石川さん、こちらのチーさんこと加藤さんはこの食堂の息子さんで、町の教育委員会の担当者です」
「はじめまして、『アートライフ』編集部の石川と申します。このたびは取材で羽根さんにお世話になっています」
「石川さん、お話は伺っていますよ。今日は公務でご一緒出来ずに残念だったのですが、良かったらここでお話ご一緒させてください」
 聞くと、羽根さんと加藤さんは幼馴染で、今回の取材のアレンジも加藤さんが色々と調整してくれたようだ。あたしたちは三人とも年が近いこともあって、すぐに和気あいあいとした雰囲気となった。そして行政として文化財を守るための取り組みについても色々と話を伺うことが出来た。
「チーさん、例の西谷啓治記念館の件は何か進展あった?」
「相変わらず、なかなかままならないね」
「羽根さん、西谷啓治って?」
 そう、恥ずかしながらこの時のあたしは西谷啓治の名前を知らなかったのだ。
 西谷啓治(1900〜1990)は能登町出身の思想家で、京都学派の西田幾多郎(1870〜1945)に師事し、ドイツ宗教哲学や禅の研究に優れた業績を残した。町には彼の業績を記念した小さな記念館があったのだが、震災のために現在は休館中となっている。
 記念館自体は大きな被害はなかったのだが、震災以前からこの記念館を閉館し、資料を他の施設に移すという話が進められていたという。そこにこの震災が起こったため、記念館とその資料の先行きがさらに不透明になったのだという。
「かほく市の西田幾多郎記念哲学館に移管するという話もあるのかしら?」
「うん、その話もないわけではないし、資料のことを考えたら悪い話ではないんだけど……」
「でもそうすると町には、何も残らなくなってしまうわね」
「悩ましいところだね」
「本当は私たちがしっかりと、地元の偉人を顕彰しないといけないんだけどね」
 あたしは東京に帰ってからあらためて西谷啓治のことを調べたのだが、調べれば調べるほどすごい人物、世界的な偉人であることが分かった。あたしはこれまで能登を、もっぱら被災地としての側面ばかり見ていたが、能登という地域が持つ歴史や文化もしっかり勉強しないと、その地域の復興を語ることは出来ないということにあらためて気付かされた。

 能登取材の二日目。午前は国立文化財防災センターの担当者の方からお話を伺うことになっている。
 国立文化財防災センターは、東日本大震災で多くの文化財が被災したことを受けて設立された組織で、本部は奈良の国立文化財研究所の中に置かれている。今回の能登半島地震では、能登町の公民館に臨時現地本部が置かれ、数名のスタッフが常駐して文化財レスキュー等の業務にあたっているとのことだ。
 泊まっている民宿から公民館までは車でわずか五分の距離である。ただ先方とのアポイントメントは午前十時からだったので、この日はゆっくりめに起きて、朝ごはんの後に荷物をまとめてチェックアウトし、それから羽根さんの車で公民館に向かった。
 公民館の駐車場には給水車が停まっており、ポリタンクに水をくんでいる住民の方の姿が見えた。また一階の厨房では住民の方が集まって、何か作っているようだった。
 国立文化財防災センターの臨時現地本部は公民館の二階に置かれていた。あたしたちは階段を登り、「臨時現地本部」の看板が掲げられた会議室のドアをノックした。
「失礼します。『アートライフ』の石川と申します」
 するとドアが開いて男性の姿が目に入った。彼を見てあたしは驚いた。
「……東村さん!」
「向井さん、おひさしぶりです。今は石川さんとお呼びしないといけませんね」
 あたしは羽根さんの方を見ると、彼女は静かに微笑んでいた。どうやら事前に知っていたようだ。
 東村さんは、二〇一一年六月にあたしがボランティアで東日本大震災の文化財レスキューに参加した時、奈良の国立文化財研究所のスタッフとしていらしていて、たいへんお世話になった方だ。俳優の津田寛治さんにちょっと似ていて、笑顔が可愛いのが印象的である。さりげなくチェックすると、左手の薬指には指輪が光っていた。
 最初に東村さんから国立文化財防災センターが行っている活動について説明を受けた。今は七名のスタッフがこの臨時現地本部に滞在しており、他の六名は現場に出ているところだという。東村さんは能登臨時現地本部の主担当で、奈良の本部、金沢の支部との間の連絡調整や、能登の市町村担当者との連絡調整、現場の機材や備品の管理などのロジスティックが主な業務とのことだ。
 能登に派遣されているスタッフも、全員が国立文化財防災センターの職員という訳ではなく、今回の事業に対応するために各地の国立博物館や国立文化財研究所からスタッフが招集されているのだという。東村さんも本来の職場は奈良の国立文化財研究所のままで、能登には二週間の予定で滞在しており、スタッフは交代で業務にあたっているとのことだ。また国から派遣されたスタッフだけでなく、県の博物館のスタッフや、他県から派遣された行政関係者もチームに加わることもあるという。
 現在の主な業務は、保管状況が危惧される文化財を搬出し、一時保管施設に仮置きすることだという。具体的には、倒壊の危険がある建物の中にある文化財を運び出すケースが多く、それも現場の安全が確保されてからでないと取りかかることが出来ない。そのため倒壊した建物から文化財を救出するというケースは、まだ取りかかることが出来ていないという。
 現場では、建物の倒壊の可能性という危険な状況だけでなく、搬出した文化財が運搬する車に乗りきらなかったり、そもそも運搬車が現場に横付け出来なかったので梱包した仏像を数人で担いで運ばないといけなかったり、あるいは文化財の所有者の方と事前に十分な意思疎通が出来ておらず現場でトラブルになったりすることもあるなど、苦労も多いとのことだった。
「そういえば東村さんは、どうしてあたしが取材で来ることが分かっていたんですか? あの時からあたしは名字が変わっているし、雑誌も変わっているのに……」
 すると東村さんは微笑みながら答えた。
「石川さんの『アートライフ』の企画や記事は、いつも読ませて頂いていますよ」
「えっ、そうなんですか?」
「東日本の時のルポ、読ませて頂いて、すばらしい記事だと思いました。それからだいぶたってから、『アートライフ』をたまたま手に取って読んでみると、あの時の記事を思い出したんです。奥付を見ると名字は変わっていましたが、ああ、あの時の向井さんだ、と気が付いたんです」
 その話を聞いてあたしは胸がじーんと熱くなった。自分の書いたものをこうして覚えていてくれる人がいたことに感動したのだ。
 小一時間ほどたち、東村さんもこれからオンライン会議に参加しないといけないということだったので、あたしたちはおいとますることにした。
「石川さんはいつまで能登にいらっしゃるんですか?」
「それが、これから金沢に戻らないといけないんですよ。東村さんはまだあと一週間ほどいらっしゃるんですよね」
「はい」
「お気をつけてお過ごしくださいね」
「こちらは思ったより快適なので良かったです。お風呂も温泉でかけ流しなんですよ」
「あら! 東村さんもお泊まりは柳田荘なんですか?」
「はい。石川さんも?」
 ああ、何という偶然……というか、何で気付かなかったのよ、あたし。まあ同じ宿に泊まっていたからといって何かあるわけでもなく、東村さんに限ってはなおさら何もないのは明らかだけど、初日の夜に一人で部屋で黙々と缶ビールを飲んでいた自分自身に対してくやしい思いがふつふつと湧いてきた。

 あたしと羽根さんは昨日の夕食をいただいた加藤食堂を再び訪れ、お昼ごはんを食べた。あたしはいなりうどん、羽根さんは山菜そばを選んだ。
 ちょっと早めの昼食を済ませた後、羽根さんの運転するパジェロは一路、金沢を目指した。帰りはのと里山街道が途中まで使えないので、ひたすら地道を南下していく。確かに、地道の方が道路の状況は良かった。高速道路と違って、切り通しや土盛りをした箇所が少ないからかもしれない。
 羽根さんによると、今日は金曜日なので夕方になると道が大渋滞するのだという。復興で来ている人たちも週末は金沢に帰る人が多く、道は限られているのでどうしても集中してしまうのだという。一度、奥能登を二時半くらいに出たら大渋滞に巻き込まれて金沢駅に着いたのが夜の八時ということもあったそうだ。幸い、この時間は道も空いていてスムーズなドライブだった。
 途中、能登島のあたりを通る時の景色にあたしはうっとりとした。能登島のあたりの海は内海なので波もなくおだやかで、能登島を越えてはるか向こうには雪をかぶった白い立山連峰が見えた。能登島に渡る橋も綺麗なデザインだったが、地震で傷んでまだ通行止めなのだという。
「このあたり、イルカが来るんですよ」
「へぇー、見てみたいな」
「またプライベートでもぜひいらしてくださいね」
 被災地のことを考えると、能登に観光で行くというのは何だか不謹慎なような気がしていたのだが、地元の人の気持ちとしてはやはり観光に来てもらいたいということなのかな……と思った。もちろん観光で経済がうるおうというのもあると思うが、それよりも、羽根さんのように地元に誇りを持っていて、それを多くの人に見てもらいたい、というように考えている人もいるんだろうな……と思ったりもした。
 途中からのと里山街道に乗り、羽咋市を過ぎたあたりから道は海岸沿いの一直線となった。ここまで来ると路面のでこぼこもないので、車はスムーズに走ってあっという間に金沢市内に入った。そして午後三時頃には金沢駅の西口に着いた。
「羽根さん、本当にお世話になりました。こんなこと言うと不謹慎かもしれないけど……とても楽しかったわ」
「私もよ。石川さん、いい記事書いてくださいね」
 あたしたちは握手を交わし、続いてどちらからともなく相手の身体をハグした。これまでも羽根さんとは何度か一緒に仕事をしたことがあったが、今ではまるで長年の友人同士の間柄のように感じられた。
 
 羽根さんと別れて駅の構内に入ったあたしは、みどりの窓口のところにある自動販売機で新幹線の切符を発券した。行き先は東京ではない。
 今月、北陸新幹線は敦賀まで延伸した。そしてあたしは初めてその路線に乗るのだ。
 行き先は……芦原温泉駅である。
 





 


 
 


 



 
 




 



 


 
 

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