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居心地悪く、大人になれない

年末年始、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
おかげさまで僕は非常に穏やかに過ごせています。

と、いうのも12月の頭から約1ヶ月のお休みを僕はいただいている。実際は勝手に宣言しているようなものなので最低限のやるべきことはストップできないのだが、それ以上のことは意識的に手をつけないようにしている。

僕の大学はスケジュールが特殊で年末に期末テストがあるが、無理に出席せず最低限の出席回数ラインを超低空飛行、テストも選択式はノー勉、記述式は授業開始のチャイムがなるまでの数分間資料を眺めるだけの非常にスリリングなスタイルで臨んだ。客観的に見てもそれなりに優秀な分類なので多分落とした単位はないだろうが、最低限の単位だろう。普段なら成績のページにcが並ぶのは癪だが正直今はどうでもいいとさえ思っている。
むしろ単位を落としてもいいかなとも思う。来年は最終学年で授業的には暇になる。部屋で一人の時に暇で眺める天井は健康に悪い。

他の活動もストップさせた。というかむしろこっちが原因であって、授業だけなら今の状態でも真面目に出席してテストも真面目に受けていただろう。

以前も書いたが、僕は心身をヤスリで削るような世界に生きている。
誤解されたくないが全然嫌ではない。むしろ心地良かったりする。
毎日をギリギリでこなしてそれを永遠に続けていく。全然違う内容がぎゅうぎゅうに詰め込まれた忙しさなら少なくとも飽きはしないだろう。しかし、僕の世界は側から見たら同じことの繰り返しだ。自分のことをそうとは微塵も思わないが、生活スタイルは職人をイメージしてもらえば近いのだろう。毎日の繰り返しの中で微妙な違いを感じながら細かい修正を続けていく。しつこいようだが全くもってそれが嫌じゃないし、それが楽しいとも思っている。
その中でギリギリのノルマが常に設定される。それを日々クリアしていく毎日なのだ。全てのノルマを達成できるわけではないが、それでも「達成できず」は自分の居場所を小さくしていくし、自分でもちゃんと気持ち悪い。

ある時全ての流れが途絶えた。
本当に一瞬だったし側から見ると多分本当に気づかないくらいの変化なのだと思う。でもその一瞬は僕にとっては致命的だった。
そこからはどう足掻いても軌道修正は叶わなかった。
でも多分、当時の僕はその時の100%の努力をしていた。居場所も小さく、心身的にもギリギリの中でよく頑張ったと思っている。

それから半年、「ここまでかな」と思った。
許容量以上の刺激は身体的にも精神的にも長続きしない。

味覚が鈍くなった、正確にはどんな味に美味しいと感じるのか忘れてしまう。
動きも鈍くなった、何かしようと考えようとしても思考できず数分経つ。
物忘れが増えた、頼まれごとができず不真面目と言われる。
集中力が落ちた、単純作業のミスが増えた。
興味が湧かなくなった、みたい映画・テレビが見つからない。
本を読めなくなった、文芸を読んでも感動しない。
こだわりがなくなった、選択肢に迷いそうになった時どちらも諦める。
お酒が美味しいと思わなくなった、生活を頑張ってないから。
髪の毛が抜けやすくなった、髪を書き上げるたびに毛が抜ける。
夜に寝たくなくなった、朝が来るのが怖いから。
昼間に寝ていたくなった、寝ている間は思考が止まるから。
でも活動していないから身体的に疲労してなくすぐ目が覚める。
糖質・脂質の高いものを間食するようになった、血糖値スパイクで寝れるから。

でも24時間寝ていられるわけでは当然ながらなく、思考は勝手に回り出す。
自己否定。都合の良い未来の妄想。自己否定。妄想。自己否定。妄想。自己否定。

流石にもう無理かなと思った。
このままじゃ人の核を作る何かを失うと思った。
だからここで大事に抱えていたものを一つ捨てて勝負の卓から降りた。
正直悔しさはちゃんとある。いや、正確には寂しさがあるのか。
手に入れていたかもしれない麻薬的な悦び。
僕は大切なものを一つ失う代わりに多くのものを守る選択をした。

そんな経緯で僕は今、人生を一旦お休みさせてもらっている。

諦念を持つとはこういう感覚なんだなぁと冷静に考えていた。
自分じゃ気づかないが周りにも「疲れが取れたね」とか「さっぱりした顔してるね」と言われるようになった。

きっと、たぶん、これでよかったと思う。思いたい。思わせてください。

この期間は自分のこと、周りの人のこと、遠くの人のこと、社会のこと、世界のこと、とにかく吸収して考え続けている。そして声や文字で吐き出し続けている。

そんな中で気づいたことがある。

話が聞きたい。
その人の嬉しかったこと、悲しかったこと、好きな食べ物、嫌いな人、恥ずかしかったこと、頑張ったこと、諦めたこと、大切にしていること、どうでもいいこと、やらかしたこと、自慢したいこと、行きたい場所、心情、信念

哲学

何も手につかなかったとき、習慣だったラジオを聴くこととエッセイを読むことは呼吸するみたいに続けることができた。義務感で全ての行動をしていても、この二つは自分の欲求で続けた。むしろ他を放棄してのめりこめた。

この二つは人間の中身を曝け出すコンテンツだ。
ラジオパーソナリティは嘘をつけない。正確には嘘をついても見破られてしまうのだ。これはきっと音声のみで情報を伝達してるからだと思う。目が不自由な人はその分補うため聴覚が発達するという。だからラジオも音声のみで伝達するから利き手の聴覚が研ぎ澄まされて微妙な間やトーンから会話やテレビ以上に読み取ってしまうのではないかと勝手に思っている。だからパーソナリティ(人間性)なんだろう。
エッセイだってそうだ。ゼロからイチを生み出す作業の材料はいつだって自分の中にしかない。もちろん、思ってもないことだって文字にはできる。でも解像度が下がる、ディティールが弱くなる。だから想像で補わなければならないし、想像は実体験やそこからの本音に負ける。

さらにこの2つはある共通点がある。
一人に与えられた時間が長いのだ。
ラジオは特別な日を除いて基本一人か二人で話す。これで平気で2時間3時間と話すのだ。必然的に一人あたりの発言時間は長くなる。だから伝えたいことを凝縮させる必要がない。情報の凝縮とは抽象度を上げることだ。写真と一緒で抽象度は一度あげると下げれない。抽象度の上がった情報は正しく伝わらない可能性も上がる。だから結婚発表みたいな自分の言葉で伝え切りたい話はラジオまでとっておくのだろう。
エッセイもやっぱり与えられた時間、伝えられる文字数が多い。だから説明が足りないなと思えば説明を足していける。当たり前のことかもしれないが、次から次へと新しい情報が入ってくるこの時代に満足いくまで一つのことについて語れる媒体の価値は侮れないのではないだろうか。

社会に出るとされる1年と少し前のこの時期、図らずとも僕には自分の根本に潜っていく機会を与えられた。自分が好きなものは何か、嫌いなものは何か、それらの背後にある信念は何か。

僕は将来、人が本音を発することのできる環境を整備したいと思っている。

今の世界のトレンドは大量の情報だ。1日の時間は変わらないのに必要な情報は増えた。そんな世界じゃ情報は小さく小さくまとめられていく。そして真っ先に削られるのは気持ちの部分だろう。伝えたいことがあっても心ゆくまで安心して伝えられる環境がないのだ。簡易的な情報伝達手段ばかりが時代を牛耳る、そこではたくさんの誤解や無責任な誹謗中傷が蔓延る。

そんなことは耐えられない、なんて強い気持ちは違うのかもしれないけど確かに寂しい。だから僕は本音を伝えられる環境、受け取れる環境を守りたいと思っている。あわよくば自分の短い人生のターニングポイントの度にギリギリで踏みとどまらせてくれたラジオに恩返しをさせてもらいたい。

僕は時代に逆らう道を選ぼうとしている。
とてつもなくしんどく、とてつもなくヒリヒリする道なんだろう。
散々刺激的な世界の苦しさを味わったのにまた刺激的な世界に飛び込もうとしているのだ。

人は苦しんで傷ついて居心地悪くなって現実的な道にハンドルを切っていく。

大人になっていく。

僕は、

居心地悪く、大人になれない




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