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YS 1.31 いろんな角度からみてみる

ヨガの目的である心の作用を止滅することを実現するにあたって、障害となるものは、病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、誤認、確固たる境地に至りえないこと、獲得した境地から滑り落ちることでした。ではそんな時って、どんな兆候がありますかというのが、今回のスートラです。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もどうぞよしなに。

※前回分は、こちら『YS 1.30 そんなこともある』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章31節

दुःखदौर्मनस्याङ्गमेजयत्वश्वासप्रश्वासा विक्षेपसहभुवः॥३१॥
duḥkha-daurmanasya-aṅgamejayatva-śvāsapraśvāsāḥ vikṣepa sahabhuvaḥ ॥31॥
ドゥッカ ダウルマナスヤーンガメージャヤトヴァ シュヴァーサプラシュヴァーサーハ ヴィクシェパ サハブーヴァハ

Pain, depression, shaking of the body and unrhythmic breathing are the accompanying symptoms of mental distraction. (1)
(集中が乱れた時に起こる兆候として、苦しみ、気持ちの落ち込み、身体の震え、呼吸の乱れがある。)

何かをやろうと決めて取り組むとき、大なり小なりの障害はあるものです。そして、その障害による影響が発生します。自分の内側に意識を向けて瞑想に向かう時だってもちろん邪魔してくる障害があり、それに伴い、苦しみ、気持ちの落ち込み、身体の震え、呼吸の乱れが影響として表れるよと、今回のスートラは教えてくれます。

例のごとく細かく分類して教えてくれるヨーガ・スートラですが、参考にしている解説3つともが、それぞれについて特に言及していないのが印象的でした。知ってるでしょ、ということかなと思います。はい知っています、わたしは。読んでくださっている方はどうでしょうか。


フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1)は、自分の内側に意識を向ける時、何が邪魔をしているかを、丁寧に学びなさいと書いています。前回のスートラは、邪魔をしているものを通して自分の練習を眺めましたが、今回のスートラは反対です。練習中の自身を眺め、苦しみ、気持ちの落ち込み、身体の震え、呼吸の乱れがあるのならば、集中しようとしているのを邪魔されている状態だよといいます。

心が動いてしまっている状態ってなんだろうという自分から見るのと、自分を見てああ心が動いているんだなというのを知るのと、両方でやろうぜって誘ってくれているわけです。そして、いろんな角度からそれを眺めることで、その邪魔しているものをよりはっきり認識しようということだ。

なぜそれがそんなに大事かというと、それは、障害となるものがなくなることが、ヨガの命題だからです。ヨーガ・スートラの始めの始めに、ヨガは心や感情の揺れが静止している状態のことで、それを目指すんだよと書いていましたよね。


もう少しこのスートラを眺めて感じたのは、結構パワフルなスートラだなということ。たとえば、そのときに思い浮かんだことによって苦しんだり、落ち込んだりすることは、心や感情が揺れてしまって邪魔しているだけだよと書いているんです。心の作用が静かになれば、その苦しみも、落ち込みも、一緒に静かになるということ。悩みを一つ一つ解決していこうというのではなく、おおもととなるところを解決すればいいんだよということ。

だからますます、向き合う対象を知っていた方がいいし、だからいろんな角度からそれを眺めてみるというのが大事だということなんだと思います。


そして、練習中だけでなんとかなるものではないよというのが、インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参考2)です。これらの兆候は『瞑想だけで突然そうなるというものではないから、毎日の生活の中で、それらのすべてに気を配らなければならない。』と書いています。

スートラ1.16 で出てきた "外側の世界の根源にある3つの自然の性質" にサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(鈍質)があると書きました。その中で喜び、透きとおった、公正、軽さ、知性を表すサットヴァな状態にいられるようにしなさいと書いています。これは確かに、自分に向かって集中する時間だけで変えられることではなさそうです。『毎日の行動や態度、交友関係、そして食事に注意を』払いなさいと書いています。なるほど。『正しい食事と修練、適語の休息によって、身体を常に良好な状態に保ち、怠惰や不活発を許さないようにしていれば、そういうことは起きない。』とも書いています。なるほど。(うーんちょっと胸が痛い)


いやあ、大変なことだなあと、素直に思います。

嫌なことだったり、苛立つようなことがあったりしたときに、その感情に任せて振り回したくなること、あります(ありますか?)。ヨーガ・スートラに書いてあったことを思い出して、うううそうかよ分かったよと思えるようになったけど(当社比)、結構さびしい気持ちになります。悲しいとか腹立つとか、そういう気持ちって記憶に紐づいていたりするから、付き合ってあげたい気もする。だけど、ヨガ哲学になるほどなと思ってしまったんだよなあ。なるほどなと思ったら、本当にそうなのか自分で試してみてこそだから、いやあ大変なことだ。

これは自己観測用メモとして置かせておいてほしいのですが、そのなるほどなのおかげで、我慢するとはまた違っていて(希望的観測かもしれないですが)、肚の底にひとりぽつんといる静けさみたいな気持ちになるんですよね。これなんだろうな。


それはさておいても、とにかくやること、そして観察すること。ハリーシャ(参照3 )は、そうやってどんどん障害を明確にしながら取り組むことができるなら、数か月なのか、数年かかるかは分からないけれど、目的に到達できるよと書いているスートラではないかといいます。それをまずは、受け取って、やりましょ。練習。ね。


手前味噌で恐縮ですが、平日毎日6:30~7:00まで、呼吸法と瞑想(に向かう集中)を年末12月31日までやっております。大変な年だった2020年は、1年を振り返るより、きちんと1日1日を始めて終わるの連続で終えたいと思って始めました。気軽に参加できるようにと、インスタグラムのライブでやっておりますので、お時間の合う方、ご興味のある方、ぜひご参加ください。


さて、今回のスートラは長い!けど、ぜひサンスクリット語で読んで終わりにしましょう。


集中を続けられるようにについてのスートラ、次回も続きます。練習を続ける勇気を、両手でしっかり受け取りましょう。こちらからどうぞ⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから



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