YS3.2 ディアーナ:ただ起こる
さて、引き続きヨーガ・スートラを有名たらしめる八支則の説明が続きます。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、マプラティヤーハーラ、ダーラナー、そして今回は最後から2番目。この長い旅は、どう終着点を目指すのか。
※前回は、こちらの「YS 3.1 ダーラナー:入口の入口に立つ」からどうぞ。
ヨーガ・スートラ第3章2節
तत्र प्रत्ययैकतानता ध्यानम्॥२॥
tatra pratyaya-ikatānatā dhyānam ॥2॥
瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。(2)
前回のダーラナーは、うろうろさまよってしまう心を一点に置くよう努めることだという説明がありました。そして、すでに紹介しましたが、今回のディアーナは、その心が、蛇口から流れ続けて線のように見える水のように、途切れずに一点に集中できていることだということでした。
さて、それについてもう少し。
2つの条件
フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、ディアーナは以下2つの条件があると言います。
① 1つの対象に向かって、途絶えることのない継続した意識が流れていること
これは既出の条件。ダーラナーでは途切れ途切れだった集中が、訓練を経て、自然と途切れなくなって、気付いたらディアーナの状態にある。蛇口からぽたぽたとたれる水の粒が、あるときに一本の線のように切れ目なく注がれ続けるようになった状態が、ディアーナ。
ハリーシャ(参考3)が面白いことを書いていますが、その集中の対象は、意識と直接触れることはないということです。
集中の対象は、感覚が認識することによって存在が認識され、その認識が意識に伝わる。それは、元になるサンスクリット語の細かいニュアンスを拾っていくと分かるようで、ハリーシャは、〈集中の対象の認識に、継続的に瞑想する〉ことがディアーナだと訳を付けています。インテグラル・ヨーガも同様に認識しているため、今回引用したスートラの訳がついているわけです。つまりは、正確に理解しようと努めるなら、その対象への集中ではなく、認識が、一筋の水のように流れ続けるというわけのようです。
ややこしい話ですが、ディアーナへの理解へのヒントになれば嬉しいなと思います。わたしは、将来への自分への種まきをしているつもりで書いているので、分からないなとおもうことも、そのまま抱えて進めてみます。というわけで、ここでひとつ、埋めておく。
②自分が途切れることのない集中を実践しているという意識があること
そして、こちらは新しい条件。たとえば集中の対象をある物を集中の対象として思い浮かべたとき、そのものを単体で思い浮かべるのでなく、ディアーナの訓練をしている自身丸ごとを思い浮かべる必要があるということです。
そうでなければ、集中をしている最中に、心が離れてしまっても気付かないからで、それは良くないというわけです。これは面白い、と思いませんか。
前回のダーラナーは、心を1点に置き続けられるようにしつけるのだということでした。そして、次のステップは、その「しつけ」が成功し、途切れることなく置き続けていられる状態。それが、ダーラナーであり、ヨーガ・スートラのいうところの〈瞑想〉であり、それ以上でも、それ以下でもないということです。
これ以上の詳細は書かれていないので、推測するばかりですが、だからこそ、その状態にある自分を含めて俯瞰できるほど、冷静であれよというわけではないかと考えます。〈瞑想〉をしているときに、感じるもの、もしくは見えるもの、もしくは瞑想状態を抜けた後に受け取るもの、いろいろあると思います。でも、それらは特筆すべきことではないんだということかなと。
これについても、読んでくださる方がどう考えるか、そしてわたしがまたいつか読み返す時に何を感じるかを楽しみにしたいと思います。
どうしたら分かるのか
では、自分のその練習が、ダーラナーにいるのか、ディアーナにいるのか、分かるのでしょうか。自分丸ごと俯瞰していることができるならば、できそうだよなと思います。解説も、これについて書いています。
インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は、5分やったのを1時間やったかのように感じたら、それは瞑想ではないと書いています。反対に、1時間やったのに、5分しかやっていないかのように感じたら、瞑想だと。そして、その理由を、集中によって身体さえも忘れ、「あなたは時間と空間を超え」、そして「心が身体意識を超える」からだと言います。
このあたりについては、説明が上手な方や、考察の深い方がいるだろうと思うので、そういう方々にお任せします。ただ、〈時間〉という概念について、おもうことを少し。
地球が太陽の周りを公転する周期(=1太陽年)は、実は365日ではなく、それよりも約1/4日長い365日5時間48分46秒かかるんだそうです(「うるう年とうるう秒について」, THE SEIKO MUSEUM GINZA, 2020)。だから、4年に1度のうるう年で帳尻を合わせる必要がある。ここから分かるのは、生活するにあたり、いつからか目安としての時間のメモリが必要になったということだと思うんです。
そして、身体も、その目安としてある時間に沿って観察される。その身体は外の世界(プラクリティ)にあるものなわけだから、同じリズムで動いているというのは、まあそうかもなと思いませんか。そして、外の世界を眺める、〈見るもの〉プルシャは、きっとそこから自由であるだろうなとは、少なくとも理屈では分かる気がしませんか。
というところまで、です。
インテグラル・ヨーガは、瞑想であると分かる兆候は他にもまだあると続けています。しかし、「普通私はこうしたことをあまり話さないことにしている」と書いています。なぜならば、「そういうことを聞くと、「そういうことが今私に起こっているんだ」というふうに想像してしまうからである」というわけです。
想像すると、期待して、待ってしまいやすくなります。その期待、その待つ姿勢、それは集中している状態から外れているのは明らかだと思いませんか。
「それは起こすのではなく、ただ起こるのである」と、インテグラル・ヨーガは、結んでいます。ここに戻ってくるわけです。だから、たまに面倒になったり、やさぐれたりもしながら、それでも真摯に練習を続けようというところに着地する。
では、次回はついに八支則の最後のステップ、サマーディです。7つのステップを経て、辿りつくのはどこなのか。次回もどうぞお楽しみに。また来週、ここでお待ちしています。
※ 本記事の参考文献はこちらから
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