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YS3.1 ダーラナー:入口の入口に立つ

全4章からなるヨーガ・スートラ。今回より第3章の開幕です。
とはいえ、第2章から始まった、ヨーガ・スートラを有名たらしめる八支則の途中でもあります。八支則のヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤー、マプラティヤーハーラという5つのサーダナー(修練)を経て、さてここからどんな説明が始まるのか。

※前回は、こちらの「YS 2.55 その喜びは分かち合える」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第3章1節

देशबन्धश्चित्तस्य धारणा॥१॥
deśa-bandhaḥ cittasya dhāraṇā ॥1॥

Concentration(dharana) is binding the mind to one place. (1)
集中(ダーラナー)とは、心をひとつの場所に縛りつけておくことである。

今回のスートラを読んでみて、最初の感想はなんですか。わたしの感想は、「縛りつけておく」だなんて、なかなか物騒な響きではということでした。


縛りつけておく

英語で書かれた2つの解説書も、日本語で書かれたものも、「縛りつける」という単語を使っています。実際に、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は、「ダーラナーで、あなたは心を”しつけて”いるのである」と言います。

しつけるために縛るというのは、現代ではコンプライアンスに引っ掛かりそうですが、とにかくそうするのだと。なぜなら、心を一点に置いておくことが難しいから。だから、まずは「バラとかろうそくとか図像を眼の前に置く」。そして、それが「瞑想の始点である」と続けています。

心を一点に置く先は、実際の物はもちろん、ヘソや胸の真ん中、もしくはマントラのような実体のないものでも良いとのこと。何に瞑想するかより、どう取り組むかが大事。


集中せずに心が動いてしまうのを許すことのないように、と書いているのはフォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)です。英語の直訳っぽさをそのまま残しましたが、動いてしまったら、戻す。そのシンプルなことをする。

これはインテグラル・ヨーガも書いていることですが、「心が走る、引き戻す、また走る、また引き戻す―この作業そのものが」必要で、「それをしていくこと自体が、集中と呼ばれるものである」と書いています。だから、集中ののちに起こる瞑想を、できないなとか向いてないなと思わずに、試み続けようと書いています。

この試みは、言うことを聞かない猿を飼いならしているようなものだといいます。だから、戻ってくるわけです。ここでは、心の訓練を、もしくは自分自身をしつけるわけです。それが、ダーラナー。


リマインドをいくつか

ところで、身体は動いていませんかとリマインドするのは、フォーチャプターズです。身体が少し動けば、心臓が早くなり、呼吸が早くなり、心をかき乱すことになります。なにも100mダッシュをするわけではないけれど、少しの動きが静けさを乱す。その微細な乱れが分かるくらいに、身体が安定して静かなところにあり続けることは、絶対に必要不可欠だと言います。


ところで、心があちこちに行ってしまうわけではないけれど、集中の対象を忘れてしまっていませんかとリマインドするのは、ハリーシャ(参考3)です。集中は、ひとつの対象に意識を置いておくこと。たとえば、マントラに意識を置いているのであれば、途絶えることなく、マントラに意識を置き続けておく必要がある。

なるほど。


いつの間にか次にいる

そういったことをふまえながら、ハリーシャ曰く、できる限り最小限の努力で、瞑想の対象に心を休ませ続けるために必要な最小限の努力で行うことができるようになる。そして、その全く集中が途切れない状態になった時が、次のディアーナだといいます。蛇口から水がひとつの線のように流れるさまが、たとえとしてよく使われるディアーナ。


どの解説も、八支則の最後の3つ、ダーラナー、ディアーナ、サマーディは、連続したつながりにあることを理解しておくべきだといいます。1つの段階から、次の段階に、いつの間にか進んでいる。これらは、境界線がないし、境界線を引くこともできない。そうやって、八支則のステップを経て、どんどん内面化し、より繊細な域に突入していく。

その入口の入口に立ちました。


では、次回はすでに出てきた、八支則の次のステップ、ディアーナ。次回もどうぞお楽しみに。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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