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YS 1.19 神さまだって途中だってさ

前回までのスートラで各種サマーディに触れたのちの、ちょっと一味違ったスートラです。

※前回分は、こちら『YS 1.18 純粋なそのものとして受け取る』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章19節

भवप्रत्ययो विदेहप्रकृतिलयानाम्॥१९॥
bhava-pratyayo videha-prakr̥ti-layānam ॥19॥
バヴァ プラティヤヨー ヴィデハ プラクルティ ラヤーナン

単に物質的身体を去って展開の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)に没入した者には、再生がある。(2)

さてどこから始めようかと思う、今回のスートラです。今までの、生まれ育った文化的背景が違っても理解できる、というのとは、少し違った様相。

まず、ここでは前提として死んで身体を去った者が、またこの世に生まれてくるという輪廻転生が信じられているということ。だからそして、ヨガが目指すのは、その輪廻転生のわっかから自由になってこの世に戻ってこないこと、再生すること、つまり解脱することを目指しています。(なんとなく響きが怖いですが、全てから切り離されて宇宙の闇に放り出されるというのとは違うというのは、前回のスートラで書いたとおり。)

だから、今回スートラに書かれた「再生がある」というのは、望ましい結果ではないわけです。生まれ変わってもまた会いたい… というあのロマンチックなのは、ここではくそー至らなかったか!ということですね。険しい道です(いろんなレベルで)。


その至らなかった人たちというのが、単に物質的身体を去って展開の神格たる状態に至った者と自然(プラクリティ)に没入した者の2種類のタイプがあるというわけです。まずは、後者から。

・自然(プラクリティ)に没入した者

インテグラル・ヨーガが、プラクリティを「自然」とするの、ちょっと熱くなりますが、それはひとまずおいて、プラクリティです。スートラ1.16 で出てきた、本来の自分であるプルシャ〈見るもの〉に対しての、プラクリティ〈見られるもの〉という構造、覚えているでしょうか。

ヨガをツールとして心や感情の揺れが静止した状態を目指しましょう(スートラ1.2)、なぜならだと本来の自分である〈見るもの〉が自分のまま在ることができるからね(スートラ1.3)、そうじゃないと本当の自分を心や感情の揺れによって変容したものと同一視してしまうことになるよ(スートラ1.4)。心や感情の揺れによって変容したものとは、〈見るもの〉が見ている〈見られるもの〉として現れているわけです。だから、〈見られるもの〉もといプラクリティに没入することは、それは目指していることと違うからやり直してね、ということです。

こちらは、今までのおさらいでした。さて、もうひとつ。

・単に物質的身体を去って展開の神格たる状態に至った者

(一般的な意味で)亡くなったあとに神様になるならいいじゃん? と思うところですが、そうではないぞと。「神々とは、やや進化が進んで自然を統御するようになり、そうした統御によって天界においてある種の愉楽を享受する人間のことであるにすぎない。」とインテグラル・ヨーガ (2) にあるように、「神格たる状態」は、サマーディへ続く道の過程にあるものだと考えられているようです。

物質的から離れて光となり、善いカルマを積みきった神さまは、有害ではないサムスカーラから実ったいいものをエンジョイしていているだけであって、サマーディを経験しているわけではないと、ハリーシャ (3) はこのスートラを読みます。心や感情の揺れが静止した状態にいるのではなく、それを目指して経験していくことを味わっている状態だということです。だから、実ったいいものを味わい尽くしたら、また人間に生まれ変わって、アビィヤーサ(修習)ヴァイラーギャ(離欲)を続けるだけ。

なるほど、面白い神さま観です。


場合によっては神さまというステージを踏みながらも、サマーディへの旅が、生まれ変わりながら続いていくことが分かるし、前の生が次の生に影響することも教えてくれるスートラです。フォーチャプター (1) は、だから前世によっては、生まれてすぐにサマーディにたどり着く人もいるんだよと書いています。だから、この旅をこつこつ行きましょうということになるんでしょうね。

余談ですが、生まれ変わっても過去のカルマは残ったままというところから、10代でサマーディに到達した聖人の具体的な名前を出してくるのが、さすが伝統を伝統なまま解説するのが魅力のフォーチャプターならでは。The great saint Jnaneshwar(Sant Dnyaneshwar)と Ramana Maharshi of Arunachala ということなので、興味のある方は調べてみてください。お二方ともウィキペディアのページがあるし、後者の方は日本語サイトも出てきます。ヨガ文化の厚み、すごいんだなとつくづく感じる。

あと、ヨガの勉強して、インドに住んでみて、輪廻転生がデフォルトで信じられているっていうのは、この人生で長く健康にを祈る国で生まれ育った私は、やっぱりなんか人生観が違うよなと思いました。信じる信じないというより、習慣や文化として続いているものがあり(本来の意味を忘れていても)、結果、国民の総意として少なくともそれを認識しているというだけで、ひとつの大きな渦を作っていると思うんです。だから、そこに住んでいると、影響を受けないでは生きられない。そんなことを考えて、文化の厚みってきっとすごいんだなと感じたこともありました。余談の余談。


さて、今回もはりきってスートラを音読しましょう。分からないこと、知らないことがいっぱいだからこそ、それらに出会った時には、身体も少し使っておくのも大事だと思うんです。


じゃあそれ以外の人たちは?という質問の答えへと続きます。次回のヨーガ・スートラ第1章20節はこちらから⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから



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