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YS 1.45 根っこに届く

さて、まだまだ続くサマーディの話。細かく見てきたことで、あのサマーディですが、少し身近に感じることができるような気がします。今回も、はりきっていきましょ。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もどうぞよしなに。

※前回分は、こちら『YS 1.44 そのステップをもっと細かく』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章45節

सूक्ष्मविषयत्वं चालिङ्गपर्यवसानम्॥४५॥
sūkṣma-viṣayatvam-ca-aliṇga paryavasānam ॥45॥
スークシュマ ヴィシャヤトヴァン チャーリンガ パリヤヴァサーナン

The stages of samadhi in respect to subtle objects extend up to prakriti. (1)
サマーディのこの段階において、微細な対象はプラクリティにまで拡張する。


今までを簡単に振り返ると、まずは、瞑想の対象としたものの名前、かたち、それのもつ意味を別々のこととして認識した、潜在意識を残したまま対象に一点集中しているところから始まりました(スートラ1.42)。そして、て、対象への記憶であるといえるその3つが消滅し、純化する、つまり、潜在意識が消滅する(スートラ1.43)。自分とは違う向こうにあるものとして存在していた対象とのあいだにあった境界線が、時間・空間・アイディアが顕在化することによって、消滅していく。たとえば視覚でとらえていたものを光と色で認識するように。それによって、喜びや、覚醒がもたらされる(スートラ1.44)。そしてそれが、物質的な世界の根本であるとヨガがいう、〈見られるもの〉または、プラクリティに触れるところまで到達する、というのが今回のスートラ。

もともとのサンスクリット語では、プラクリティと記載されていなくて、アリンガと書かれています。そして、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、アリンガというのは、3つのグナが平等に完全に混ぜ合わさる最後の状態だと書いています。ほう。

グナというのは、プラクリティを構成する3つの性質で、その性質とはサットヴァ、ラジャス、タマスでした。この先に進む前に、復習をしておきたい方は、スートラ1.16、または、そこで紹介した以下の記事がとてもよくまとまっているので、ぜひのぞいてみてください。


フォーチャプターズは、グナが溶け込んでいくのも4つの段階についても紹介しています。まず1つめの段階として、サットヴァ、ラジャス、タマスがそれぞれ在る。次に、サットヴァが増大して、ラジャスとタマスが従属する。そこから、サットヴァだけになり、平衡、または心の平静が成立する。その最後がアリンガで、3つのグナの平衡が成立し、そこではもはや、それを区別する跡や印、性質、性格が存在しない、ということだそうです。(サットヴァだけの後に、3つの平衡に戻るというのは... 面白いなあと思いませんか)

このアリンガを、フォーチャプターズはプラクリティ、ハリーシャ(参考3)は「印がないもの(the Unmarked)」「形がないもの(the Formless)」、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は「定義しあたわざるもの」、とそれぞれ訳しています。この3つのことばが重なるそこが、アリンガ。このスートラでたどり着くところ。


ハリーシャは、これを「人工的に作られた精神的な境界は、ここで記された瞑想のプロセスを通して崩壊する」と書いています。また、インテグラル・ヨーガがいうところの、「究極的には、プラクリティと呼ばれる根源力つまり非顕現状態の本源的実体に行き着く、ということである。(中略)このように心は、非顕現の自然という根源にまで至る力を持つわけだ。」ということです。そんな力、持ってるってよ。

前のスートラでも書きましたが、どこか他にあるところに行き着くのではなく、元ある場所に戻っていく。拡張するのだけれど、それは対象が元々そうであったように、かたちのない実体に溶け込んでいく。だってそうですよね、先ほどのヨガ・ジェネレーションの記事にあったように、それぞれ存在していたプルシャとプラクリティが出会うことによって、プルシャの光に照らされたプラクリティが存在をあらわすことで、この物質的な世界が顕在化するわけです。

そこの発生にまで遡ることになる、この瞑想の段階。そしてそれはつまり、見る、触れる、聞く、味わう、香る全てがただプラクリティの再配列なだけだという、元々ある特有の性質を思い出すことにつながると、ハリーシャが書いています。すごいところまで、たどり着きました。


終わる前に、グナが元の状態に戻っていく過程の話に少し戻りたい。サットヴァだけの後に、また3つのグナの平衡状態があるというのは、ついヨガをしていると陥りがちな善悪のはなしにつながるなと思います。善いは善いから目指すべきだけど、そこに執着がのっかると、その向こう岸で悪が暴れてしまう。でも、善いものも最後は在るべきところ、他の2つとバランスが良いところに戻っていくわけです。そもそも、サットヴァ、ラジャス、タマスと、2項対立の罠に落ちてしまわないようにできているわけです。

ここで問われるのは、善いを求める集中力と同時に、俯瞰して眺める目の、バランスのちょうどいいどころだろうなと思います。わたしは... 前者が圧倒的に足りないなと思います。気付けば、選べる。読んでくださっている方は、どうでしょうか。


カタカナがいっぱい出てくるスートラが続きます。仲良くなれる気がしないわあという方ほど、ぜひ音読を。口に出して3回読むと、ちょっと好きになります。ほんとです。ぜひお試しあれ。


サマーディという、未知のものをここまで細かく説明してくれると、今となっては、そうか、いいね、と思えるなと感じています。知るっていうのは、こういうことかという体験だなあと(サマーディの体験は、まだまだこれからだけど)。では、まだまだ続くサマーディのはなし。また来週お待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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