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YS 1.44 そのステップをもっと細かく

さて、まだまだ続くサマーディの話。前説はもうそこそこに、本文を進めましょう。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もどうぞよしなに。

※前回分は、こちら『YS 1.43 でもまだ途中』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章44節

एतयैव सविचारा निर्विचारा च सूक्ष्मविषया व्याख्याता॥४४॥
etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣma-viṣaya vyākhyātā ॥44॥
エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマ ヴィシャヤー ヴヤクヤーター

By this explanation alone savichara samadhi, nirvichara samadhi and subtler stages of samadhi have been explained. (1)
これにより、サヴィチャーラ・サマーディ、ニルヴィチャーラ・サマーディ、そして更に微細なレベルについて説明される。


さて、前々回のサヴィタルカ・サマーディとは、瞑想の対象としたものの名前、かたち、それのもつ意味を別々のこととして認識することができる状態でした。そして、前回のニルヴィタルカ・サマーディは、そういった対象を形容するものが全てなくなった状態でした。そして今回は、この1スートラで、一気に4つ紹介します。

なぜそんな急に早足... と思いますが、とても微細な段階に入っていく分、大きく分けることが難しいからではないかと思います。今回は、想像力と地に足つけ力を最大限に使って読めましょう。って今更か。


さて。まずは、サヴィチャーラ・サマーディ。対象の理解のプロセスが反射を通して起こるため、そこにもうかたちは存在しない状態だと、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は書いています。名前・かたち・その意味、が識別出来たところから、その3つが消滅し、今度は、時間・空間・アイディア、が顕在化してくる。説明するのは難しいけど、と解説に書いてあります。そうでしょうとも。

いったん目をつぶって考えたい(ああ文章で書いているのが悔しい)。対象を視覚で感知するもの、たとえばお茶碗とします。その名前・かたち・その意味をそれぞれ別のものとして受け取るとき、その茶碗をより濃く、よりくっきり見えるようになるような気がしませんか。時間、ぜひかけてください。邪魔なノイズが、自然と消えていく。(ここがサヴィタルカ・サマーディ)

では、それらがなくなって(ニルヴィタルカ・サマーディ)、代わりに時間・空間・アイディアが物事の線引きをする状態にシフトしていきます。どうでしょうか。さっきまでクリアだった輪郭が少しぼやける気が、しませんか。境界線が曖昧になっていく。これ、ニルヴィチャーラ・サマーディに続きます。


ニルヴィチャーラ・サマーディでは、その茶碗を、光と色で知覚する。それって、実は目に映る全てを形成している要素なわけで、つまるところ原子の話にいきつくわけです。スートラ1.40 で原子の話が少し出てきたのが、ここにこっそりつながっています。

ハリーシャ(参考3)は、この状態では、対象は潜在的・顕在的に関わらず、境界線がなくなると書いています。だから、クリアだった輪郭=それをそれと線引きする他のものとの境界線、がなくなる。だから、それがぼやっとした先に、いよいよ全てがひとつになる... と思ったら、そこにまだ残っているものがあるようです。空間・時間・アイディアの消滅したその奥にあった形態・構造・設定もなくなり、そこに残るのは、考えの本質的な性質だと、フォーチャプターズは書いています。言い換えるとしたら、対象にぐっと集中していたところから、自分がそれを「知覚している」と気付いて理解するようです。視点が変わりました。


ヨガはつながるという意味があるんですよと説明されることが多いですが、その前にいったん切り離すステップがあることを大事にしたいなと思うんです。原子云々を考えたら、科学も同意しているみたいだし、そういうことなのかもなと思うけれど、わたしは、いまのわたしのまま受け取ることができるとは、まったく思えなくて。余計なノイズが多すぎるから、一気にそこを目指したら、スベるなと思うんです。

スベって、大事なところを通り過ぎてしまって、通り過ぎた気になってしまう。それが間違っているとは思わないけど、余計な越えるべきハードルを自ら作ってしまうよなあと思います。そもそも最初に書いた通り、ことばで表現することが難しいくらいに理解することが難しい、繊細な領域の話をしているわけです。

ではどうするんですかと言えば、その微細な違い残そうと努めてくれた先人に感謝しつつ、一歩一歩を大事に踏み固めていくしかないのではないかなあ。久しぶりに思い出しておきたいアヴィヤーサとヴァイラーギャ。忘れちゃったなという方は、ぜひこちら↓の記事をどうぞ。


そして、饒舌なフォーチャプターズだけが語るのは、この微細な段階にはもう2つステージがあると。スートラ1.17 でもすでに紹介していますが、アナンダとアスミタ。

アナンダは、完全な平和と絶対的な喜び。ここでいう喜びは、感覚で経験する状態ではないと書いています。この喜びという心の特定の動きが取り外されたときにサヴィチャーラになるいうことです。これ、すごいなあと思うのは「完全な平和と絶対的な喜び」なんてもう最終ゴールにしてしまってもいいようなものなのに、まだ途中だよというわけです。まあよく考えれば、スートラ1.19 で、神さまだって道の途中だというパタンジャリ先生です。あまり関係ない話だけど、ブッダの弟子にアナンダという名前の方がいましたね(わたしは手塚治虫の漫画で読んだ)。

そして、アスミタ。ヨガが喜びと並列に置いたものは、覚醒、または目覚め。もう少し身近な言葉に翻訳するなら、本質を眺める視点ということかなと思います。アスミタでは、物事を純粋なままに理解する段階で、 そこには余分なノイズはなく、時間・空間も消滅しているが、視点がみせる対象への完全なる理解や覚醒がある。 


このスートラ、このサマーディの段階で対象をより微細なものに変えるという意味では、という説もあるようです。ハリーシャは、そうではなくて集中の対象にズームインしていくことについて書かれていると言っていて、それにそった今回の解説になりました。


さて、サンスクリット語でスカッと読んで、終わりにしましょう。


このマガジンを始めるときに、更新を週1回にしたのは、わたしの能力不足で時間が必要だろうと思ったのも理由のひとつですが、1節ずつ読んだら、ずっとでないにせよ、それについて考えてみる1週間があるといいなと思ったからでもあります。そうやって読んでいくのに良さそうなこの連日のサマーディですが、まだまだ続きます。次のスートラは、こちらから⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから



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