看護師・柳澤さんが語る、高齢者の魅力と家族のあり方
海外にゆかりのある方々のコロナ禍における心情、今後の活動への思いを共有するインタビュー第2回目として、国際保健や地域保健の現場で活躍する看護師で、大学教員を務める柳澤さんのライフストーリー、介護の魅力、家族のあり方について、お話を伺いました。
柳澤さんのプロフィール
岡山県出身。看護師として病院、老人ホーム勤務、JICA海外協力隊派遣(インドネシア)を経て、現在は大学教員として地域保健や在宅看護学実習などを担当する。NPO法人ReCA (※1) のインドネシア事業リーダーを務める。近著「外国人介護士と働くための異文化理解」(渡辺長編、大阪大学出版会、2022年2月)では、インドネシアにおける介護観や家族のあり方について執筆する。
聞き手(筆者) Tomoe
神奈川県出身。管理栄養士として病院勤務、JICA海外協力隊派遣(マラウイ)、留学生事業担当を経て、現在特定保健指導等に携わる。NPO法人ReCA (※1) の栄養士として、柳澤さんとともに活動を行う。
※1 NPO法人Rehab-Care for ASIA (ReCA)
1 1人で過ごすことが好きだった子ども時代と環境問題への関心
Tomoe:柳澤さんは明るくて親しみやすくて、行動力があって、コミュニケーション力が高い人だなと思ってます。柳澤さんが書かれた記事やブログを拝見し、子どもの頃は内向的だったと書かれていて、意外でした。
柳澤さん:子どもの頃は全然明るくなかったです。出身が岡山の田舎で、図書室で児童書を読みあさってました。その頃夢中になったこといえば、Nintendo 64とポケモンと木登りです。たくさん本を読んでいたので、中学生くらいから眼鏡をかけてました。
Tomoe:自然豊かな環境で生活していて、室内でも外でもよく遊ぶ子どもだったのでしょうか。
柳澤さん:そう言われるとそうかもしれないですね。親が子どもを外に連れ出そうとしていて、夏は毎週のように海に連れて行ってもらいました。岡山の北部に住んでいたので、日本海が近くにありました。
Tomoe:周りのクラスメートや親友からは、どんな印象を持たれていましたか?
柳澤さん:そもそも友達がそんなにいなかったので、内向的で1人をエンジョイしてました。席替えでできるだけ隅っこに行きたいタイプですね。
Tomoe:現在のアクティブな柳澤さんからは、全然想像つかないです。ちなみに、何か部活動に参加されてましたか?
柳澤さん:中学はボランティア部で、高校は英語部と演劇部に入ってました。
Tomoe:1人で過ごすことが好きだった柳澤さんが、中学生になってボランティア部に入るきっかけは何だったのでしょうか?
柳澤さん:ボランティアは人と関わりたいというより、自分の持つエネルギーを有効活用するには、人に活かしたいと思ってました。
Tomoe:子どもの頃から人のために自分のエネルギーを生かしたいという気持ちがあり、やがて大人になってから、協力隊(JICA海外協力隊)への参加につながったのでしょうか。
柳澤さん:国際協力や地球規模の課題にそもそも興味を持ったのは、実は環境問題なんです。元々自然に囲まれて育ったことや、4世帯の家庭で生まれ育ったことにも影響を受けています。
Tomoe:環境問題への関心が出発点だったのですね。
柳澤さん:祖母が、講演会で環境問題の話を聞いて、本を買ってきたんです。環境保護活動家の高木善之さん著「転生と地球 価値観の転換へのメッセージ」(PHP研究所、1997年8月)で、オゾン層の破壊、ゴミ問題や温暖化などが書かれていました。
私がその本を読んだのは中学生の頃で、すごく衝撃を受けました。地球が大変なことになっちゃう、なんとかせねばと思い、自分が今できることってエネルギーの有効活用だと思ったんです。それが、ボランティアや世界の課題に興味を持ったきっかけでした。
高校に入る前後は、環境問題に関わることがしたかったんです。でも、びっくりするくらい化学ができなくて、必然的に文系に行かざるを得ない状況でした。その時に、環境問題のことできないって思いました。
いわゆるバイオのことって、理系じゃないと難しいんだろうなと、当時は思いました。今だったら文系でも、環境デザインや街づくりなど、いろいろなアプローチがあると思えるのですが。
2 看護師として病院で働く経験と介護への関心
Tomoe:高校卒業後、看護師を目指して大学に進学されたのですね。
柳澤さん:高校生の時に、看護師になれば海外に行けると思いました。きっかけはこれから協力隊に行く人の取材記事が新聞に載っていて、それがたまたま看護師などの医療職でした。
小学生の頃、縁側で日向ぼっこをしていた曽祖母が車椅子を使うようになり、気づいたら寝たきりになって、自宅で亡くなりました。両親は共働きだったので、介護を担っていたのが祖母でした。私の世話をしてくれるのも祖母という状況で、おじいちゃんおばあちゃん子だったこともあって。自宅での看取りを見た時に「介護」に興味を持ち始めました。
世界の課題に関心があって、環境問題のバイオのことはできなさそうだけど、看護師になったら(介護も環境問題も)両方できる!と思ったわけです。看護師になろうと思ったのは、どちらかというと地球を守りたいという思いが私の中ではずっと強くありました。
Tomoe:子どもの頃から「介護」に関心があったのですね。大学卒業後は病院で働いていたのでしょうか?
柳澤さん:当時「看護師は病院で3年は働くべき」という、いわゆる3年神話みたいなものが根深い時代でした。あまり病院の仕事に興味がなかったのですが、まずは3年だけ病院で働くものと思い込んで、病院で働き始めました。
病院の仕事はタスクが山ほどあり、一歩間違えば命に関わります。病棟看護師の仕事はどこでも過酷と思いますが、年数が経てば経つほど、タスクが増えていき、責任も重くなると気づいた時に、それをやりたいと思って看護師になったわけじゃないと思い、モチベーションが続かなかったです。新卒で働き始めた病院を、半年ぐらいで辞めました。
私より早く辞めた大学の同級生が声をかけてくれて、老人ホームで働き始め、平和な毎日を過ごしていましたが、急変があった時に対応できない自分がいて、その時に「私このままじゃダメなんだ、やっぱり病院を経験しないといけないんだ」と思いました。
また3年神話に取り憑かれ、25歳の時に大阪の病院で働き始めました。でも、仕事が辛くて、毎日辞めたいと思ってました。
Tomoe:自身のやりたいことへの確固たる気持ちがあって、「介護」については老人ホームの仕事で叶ったけれど、その間もキャリアに対して揺れている感じでしょうか。
柳澤さん:私はもっと病院で学ばなきゃいけないんだって、その思いに迷いはありませんでしたが、いざ病院で働いたら辛かったですね。
Tomoe:辛い生活を続けながらも、柳澤さんは適応力があるので、もしかするとお仕事を楽しんでいた部分はあったのかなと想像します。
柳澤さん:病院に就職する時は、関西に行くまいと思ってました。私の父や祖父母は、大阪に20年くらい住んでいました。父は岡山生まれ大阪育ちで、怒った時だけ関西弁でした。それが超怖くて、大阪は怖いと思ってました。ここだと思った病院がたまたま大阪で、渋々出ていったという感じでしたが、実際に大阪で働き始めると、周りの人たちのノリが私はすごく心地よかったです。
大阪のミナミのほうで、良くも悪くも笑いに厳しいというか、ものすごくノリの良い人たちの中で働いていました。ミスしたら尋常じゃなく怒られますけど、良くも悪くもサバサバしていて。患者さんたちもノリが良い人たちだったので、仕事はしんどかったけど、楽しくやっていけました。
3 柳澤さんが思う高齢者の魅力
Tomoe:柳澤さんが看護師を目指されたきっかけの一つが介護で、自宅での看取りに関わった経験とのことですが、とはいえ世の中で「介護」に対してまだまだネガティブなイメージがあると私は感じてます。柳澤さんの思う介護の魅力についてお話を伺いたいです。
柳澤さん:介護の魅力、そうですね・・。介護というより、高齢者の魅力ですね。高齢者は、自分の経験よりはるかに多くの経験を持っている方々なので、節々にその人の人生、歴史に触れられるのはすごく魅力があると思います。
子どもや孫、戦争、今長崎にいると原爆の話など、ものすごく一生懸命対話をしなくても、お話される中に滲み出るものがあります。被爆者健康手帳を持っていらっしゃる方に出会うことがありますが、そういった自分の経験にないことをお伺いしたり、それが滲み出るというのは、高齢者と関わることの魅力だなと思います。
私は高齢者が好きですが、世の中にはそうではない人もいらっしゃると思います。高齢者はその人なりの経験やポリシーに基づいた上で話をされるので、それが結果として時代にそぐわなくて、ネガティブな言い方をされることもあります。しかし、経験に裏打ちされているということ自体を否定する必要はないのではと思います。私の価値観になかったら、「あなたはそうですか」ということになりますし。
Tomoe:なるほど、さすがです。ジェネレーションギャップがあるから、自分の価値観と合わないと、相手を嫌いになってしまうことが実際は多いと思います。そうではなく、リスペクトすることが大事ですね。
柳澤さん:そうですね、私の価値観と合わない高齢者に出会うこともありますが、それは世代に関係なくあります。今、世代の異なる大学生と関わっていますが、合わないなら合わないで、無理に自分の価値観と合わせなくてもいいのではと感じます。
4 家族って定義しなくてもいい
Tomoe:世代間の価値観の差や高齢者の話といえば、先日出版された著書「外国人介護士と働くための異文化理解」で、柳澤さんはインドネシアの章を書かれていますが、特に家族やコミュニティの考え方が面白いなと思いました。
インドネシアの家族観は、家族をひとりにさせないようにすることであり、血のつながりだけじゃないのですね。これは柳澤さん自身の家族観にも影響を与えているのかなと思いました。柳澤さんの思う理想の家族やコミュニティのあり方について伺いたいです。
柳澤さん:逆説的かもしれないですけど、家族は縛られなくていいと思うし、極端にいうと定義しなくてもいいと思っています。インドネシアは家族を大きく定義するというところはあるけれど、日本の古典的な考えで、両親がいて子どもがいてというのは、もはやマジョリティ(大多数)ではないです。
いわゆる親が一人しかいないというのもすごくよくある話だと思うし、兄弟がたくさんいなきゃいけないわけでもない。家族の国籍が違う、苗字が違う、血のつながっていないことも、どんどんマイノリティ(少数派)じゃなくなってきていると思います。
クレヨンしんちゃんの家族構成がマジョリティではないと思います。家族は大きくてもいいし、小さくてもいい。あなたが家族だと思うんだったら、家族なんじゃないって思います。
Tomoe:なるほど。いろんな家族のカタチを見てきたからこそ、柳澤さんがそう思われるのだろうなと思います。
柳澤さん:インドネシアだったら、大きく定義した方が都合がいいというか、ちょうどいいというのもあるでしょうし、小さく定義する方が安心という人も中にはいるでしょうし、たぶんなんでもいいと思ってます。
今私がやっている研究はヤングケアラー(※2) に関する研究で、政府として明確な定義はなく、いわゆる学習過程にある若い子が親御さん、家族のケアを担っており、それをしなければならないから進学や生活に支障が出るというような定義をされています。
Tomoe:ヤングケアラーについて研究するきっかけは何だったのでしょうか?
柳澤さん:2019年に神戸で、祖母の介護をしていた20代の女性が祖母を殺害するという事件が起きました。祖母は認知症が進んでおり、同居していたのは孫である20代の女性だけでした。孫の介護負担を軽減する程の十分なサポートを得られず、追い詰められてしまったんです。
当時私は、大学院でインドネシアにおける医療へのアクセスをテーマに、いわゆる途上国では、高齢者にとって医療へのアクセスが不便である可能性があると仮説を立てて研究をしていたんですけど、修士論文を書いているタイミングでその事件が起きました。
神戸にいたときはデイサービス、訪問入浴など、これだけサービスがあるところで、サービスの行き届かないところがあるわけがないと思っていました。ケアが届かない人がいるということに気づいたときにすごく衝撃を受けて、コロナ禍で海外に行けず、国際保健の研究が難しくなってきた時に、気づけばヤングケアラーの研究をしていました。
Tomoe:(柳澤さんが子どもの頃に感じていた)自分のエネルギーを何かに活用したいという思いと通ずるものがある気がします。
柳澤さん:そうですね、たぶんどこかでエネルギーの有効活用だと思います。
Tomoe:柳澤さんは自分のことも周りのことも常に客観的に見ていますよね。子どもの頃に自分のエネルギーを有効活用しようと思うことは、なかなかめずらしいと思います。環境問題への関心もそうだったと思うんですけど、問題意識が高く、そのために自分のエネルギーを使おうと思える。柳澤さんの魅力が満載で、いいお話をたくさん聞けて嬉しかったです。ありがとうございました。
編集後記
普段、看護職や国際協力を志す方々の前でお話する機会が多い柳澤さんの、よりパーソナルな部分、人となりをお伺いしたく、インタビューをさせていただきました。柳澤さんが子どもの頃から1人の時間を大切にし、積極的な引きこもりをされてきたからこそ、大人になった今でも、自分や周囲を客観的に見られるようになったのではと思います。柳澤さんが子どもの頃から「自分のエネルギーを有効活用したい」という想いに導かれて行動し、人との出会いを経て、いま目の前にある状況を楽しんでいる様子が伝わってきました。
インタビュー中も終始笑いが絶えず、辛かった病院勤務時代の出来事も明るく話してくださった柳澤さん。彼女が人生という旅路を楽しんでいる様子が、読者の皆様、特に将来のキャリアやライフプランについて悩む若い世代の方々にとって、一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです✨
(インタビュー実施日 2022年3月13日)
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