第2回 彼らが村を出る理由
第1章はマコンドを開拓した若き族長ホセ・アルカディオ・ブエンディアがジプシーたちの持ち込んだ発明品にはまるあまり、妻や子供をほっぽりだして、文明との接触を目指し引越しを画策するも、やがて落ち着いてマコンドに腰を据えるという話だった。第2章は、彼らがもといた村を去らねばならなかったいきさつ、マコンドに住むものがマコンドを出て行く理由を中心に話が進んでいく。今回はこのメインストリームをたどりながら、その時々に彼らが遭遇するありえない出来事とその応じ方の可笑しさについて見ていきたい。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラは、村でいっしょに育てられた。だから「二人の結婚は予想されていた」のだが、「彼らがその意志を明らかにすると、親戚の者はこぞって反対した」(p.33)。というのも彼らはいとこの間柄であり、すでに親戚同士の結婚によって豚のしっぽをもつ男の子が生まれた先例があったからだった。
若いふたりはそんなことを気にすることはないと結婚を強行する。しかし「ウルスラの母親が、生まれてくる子供についてさまざまな不吉な予言」(p.33)をする。ウルスラは怖じ気づいてしまい、母がこしらえてくれた貞操パンツを律儀に毎晩はき、夫を拒みつづけた。その結果、「結婚して一年にもなるのに、夫の不能のせいでウルスラはまだ生娘のままだ、という風評」(p.34)が村でたった。
プルデンシオ・アギラルという男が闘鶏の賭けでホセ・アルカディオ・ブエンディアに負けた腹いせに、かっとなり大きな声で、
「その軍鶏のおかげで、やっと、かみさんを歓ばしてやれるじゃないか」(p.34)とからかった。ぶち切れたホセ・アルカディオ・ブエンディアはプルデンシオ・アギラルに狙いを定めて槍を投げ、喉にぐさりと突き立てて殺してしまう。
問題はそれから後のことだ。「ある晩、眠れぬままにウルスラが水を飲みに中庭に出ていくと、水がめのわきにたっているプルデンシオ・アギラルに出会った」(p.356)。夫は最初はまったく信じないのだが、何度も妻が幻覚に襲われるのにうんざりして、槍をかまえて中庭まで出てみると、悲しげな顔をした死人が実際に立っていたのだ。
「あいつ、ずいぶんつらい思いをしてるらしいな。ひとりっきりで、きっと淋しいんだ」(p.36)
一向に消えない死人に我慢できなくなって、
「わかったよ、プルデンシオ。おれたちはこの村を出ていく。できるだけ遠くに行って二度と戻ってこないから、安心して消えてくれ」(p.37)
そう言って、夫婦は若者を連れて村を出ていく。と、ここまでがメインの粗筋なのだが、その途中途中の出来事への応じ方が可笑しいのだ。たとえば、夜ごと中庭に現れるようになったプルデンシオ・アギラルに対して、
死人がかまどの鍋の蓋をあけているのを見かけたつぎの機会には、彼が捜しているものの見当が即座についたので、それからは家のあちこちに水を張った金だらいを並べておくことにした。(p.36)
どうしてそんなことになるというのだろうか。ふつう(かどうかはわからないが)、家に幽霊が出るようになったときに、私たちは「二度と幽霊が出てこない」ように方策を練るのではないか。たとえば、無視したり、気のせいにしたり、お祓いを頼んだり、とにかくそれらが「ない」ということを成立させようと腐心するのではないか。ところが、彼らがしていることはその逆なのだ。プルデンシオ・アギラルがまさにそこにいるという前提で行動する。ないはずのものが、そこにいることとして扱われている。彼が必要としている水をたらいに張っておいてやる。彼らは真に受けて応対するのだ。
それで思い出すのがドリフターズのコントだ。いきなりどうしてドリフターズの話をするかと言えば、ウルスラが金たらいを並べたからというのもあるが、それだけではない。ドリフのコントの面白さのひとつは、日常に突然ありえないことが飛び込んできたときの、彼らが真に受けていちいち応対するその仕方の可笑しさにあると思うのだ。そしてそれはブエンディア家の人たちと通ずるところがある。
お人好しなタクシー運転手[3]
私の好きなコントのひとつにタクシードライバーものがある。新幹線に乗るために東京駅へと急いでいるいかりや長介に運転手の加藤茶が
「あぁ、8時ならぜんぜん間に合いますよ」と請け合い車を走らせるのだが、偶然歩道に知り合いを見つけると車を止め、
「どこまで? 新宿? 新宿なら通り道だから、後ろに乗ってけよ!」と軽々しく便乗させる。
いかりやは驚きながらも「新幹線に間に合うんなら、いいですよ」と言って先を急がせる。もちろん、それだけでは済まず、つぎつぎと車を止めては「上野なら、通り道だから」とか、「所沢? 所沢なら通り道だ」と人を乗せていく。そのうち後部座席はぎゅうぎゅうになり、いかりやは「苦しい。。」と苦言を漏らす。しまいには亡くなった同級生の幽霊まで乗せようとする。ふつうに考えれば、そんなタクシーは最初から降りてしまうべきだろう。けれども、このコントの面白さは、そのたまたま乗り合わせたタクシーというフレームから出ていってしまうことではなく、そこに留まったときになにが起こるのかを見届けるところにあるし、苦笑しながらも真に受けて応じるいかりやは、場合によってはその次々と起こる事象を愉しんでいるとさえ感じられるのだ。
そうだ。愉しんでいるととれるようにもみえるのは、まさにホセ・アルカディオ・ブエンディアらもしかりなのである。亡霊に対して、たらいをおいてやるという、問題の根本解決ではない、真に受けて個々の現象に応じることによって、彼ら自身も愉しく、生き生きとしているのだ。そして、気づくのだった。実は彼らは亡霊に消えてほしくなかったのではないか。
「ひとりっきりで、きっと淋しいんだ」
とホセ・アルカディオ・ブエンディアが漏らしたとき、彼もまた淋しかったのだ。そして、しがらみのある村から出ていくためには、また亡霊が消えないことが必要だったのではないか。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアが決闘で殺した相手の亡霊に悩まされて町を出るのだとしたら、『それでも家を買いました』の山村夫妻はなぜ社宅をしきりに出たがったのか。それは、入居して間もなく、社宅の近くに住む夫婦から
「あそこ、お化け出ない? たしか去年、あの部屋って自殺があって」
と言われたのが発端だった。
お化け出ない?と言われる山村夫妻[4]
もちろん、それはちょっとした冗談なのだが、そう言われると、物音ひとつが何か妙に聞こえるし、気にすればするほど気になってしまう社宅特有の近所の目と相まって、気味が悪くなってくる。自殺というのは冗談だったということがしばらくしてわかるのだが、そもそも、表向きは誰にもわからないけれど、そういう事件が起こっていたとしても不思議はないという社宅の怖さを彼らは思い知る。そして新築分譲マンション探しへと没頭していくのだ。
さて、マコンドを開拓し、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが錬金術への没頭から目を覚ましたあとに舞台は戻る。村を出たことで亡霊からは逃れたが、親族同士の結婚のため奇形の子供が生まれるかもしれないという怖れは常に付いて回る。すでに成人も近くなった長男ホセ・アルカディオのりっぱな裸を見てしまったウルスラはブタのしっぽと同様に、息子の体は異常なのではないかと心配をしはじめる。家事手伝いやトランプ占いなどで家への出入りのあったピラル・テルネラにそのことを打ち明けると彼女は
「そんなことないわよ。きっと幸せになれるわ」(p.39)
と笑い声を立てて言う。
ピラル・テルネラの家に通ううちに、ホセ・アルカディオは彼女にはまっていき、昼も夜もなく彼女の部屋に通い詰める。アウレリャノは兄のその話をとにかく聞きたがる。兄は言う。
「地震に出くわしたようなもんさ」(p.45)
夜通し女の元に通う兄と、話を聞こうと起きて待っている弟は二人とも寝不足でいつもぼーっとしている。これに気づいた母ウルスラは、どうも様子のおかしい二人を見て、
「回虫をわかしている」(p.44)というかなり謎な結論を出す。そして、兄弟は母の作った謎の薬を飲んで、とにかくお尻から寄生虫を出すことで、母を安心させる。
そんな折、長女アマランタが生まれる。みながお祝いで騒ぐ中、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとピラル・テルネラは人目を気にせず愛し合う。そして、彼女は兄にこう言うのだ。
「あなたももう一人前ね。…あんたに、子供ができる、ってことよ」(p.46)
そんなことを考えてもみなかった彼は動転し、家に閉じこもり、そしてまた突然外に出て、たまたま見かけたジプシーの幼い女の子と駆け落ちをする。やはり彼にも村を出るだけの理由があったわけだ。
ホセ・アルカディオが居なくなったことに気づいた母は出奔してしまったホセ・アルカディオを見つけようと、町を出て探していくうち、遠くまできすぎてしまったことに気づき、マコンドに帰る気をなくす。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは妻がいなくなったことに気づくと、村じゅうの男を連れて捜索に出るが見当たらず村に引き返してくる。すると、彼は生まれたばかりのアマランタに子守唄を唄ったり、ご飯を作ったり、すごく子煩悩なのだ。そして、妻が留守になってから数ヶ月後に妙なことが起こりはじめた。
犯人を突き止めた浩子[4]
妙なことが起こったときにどうやってそれに応じるか。ここが今回のポイントだ。『それでも家を買いました』では自殺と幽霊問題が解決した後でも、なぜか帰宅すると物の位置が動いていたり、鍵が開いていたりする。夫・雄介はどうせ浩子がちらかしたんだろうと暢気にかまえているが、感度が高まっていた妻・浩子は気持ち悪がる。本来ありえないことが起こった時に、どう振る舞うか。山村浩子の場合は、ひとつひとつの可能性をためし、追求していくのだ。その姿勢は、どちらかと言えば、論理的に犯人を絞り込んでいく推理小説の登場人物のようで、ブエンディア家の者たちとは随分と印象が異なる。浩子は突き止める。マスターキーを持つ社宅の自治会長の小さな子供が勝手に鍵を持ち出して開け、よその家の中で遊んだり、お菓子を食べたりしていたのだった。彼女はあくまで妙なことには論理的にアプローチする。
だとしたら、ブエンディア家の人びとは妻の留守中の妙なことにどう応じるのか。たとえばブエンディア家では次のようなことが起こる。
からっぽのフラスコが、どうにもうごかせないくらい重くなった。水を入れて仕事台にのせておいた鍋が、火の気もないのに半時間ほどぐらぐら煮たって、やがて跡かたもなく蒸発した。(p.51)
極めつけはこれだ。
アマランタの籠がひとりでに動きだし、仰天して急いで取り押さえようとするアウレリャノをしりめに、部屋をぐるりとひと回りした。(p.51)
もはやこれはホラーだ。このような超常現象に真面目に応じることなどできないような気がするのだが、ここでホセ・アルカディオ・ブエンディアは籠を「机の脚にしっかりと結びつけた」(p.51)。このあまりにその場しのぎのように見える対応は、これでいいのだろうか。
いや、これでいいのかもしれない。妙なことに対しては、基本は対症療法的な応じ方になるのだ。ありえないことが起きるということについて、私はわりと身近に感じていた。昔、実家は古い木造家屋で、部屋に行くにも薄暗い仏間を通らなければならなかったし、夜手洗いに行くには、靴を履いて離れまで薄暗い通路を歩かなくてはならなかった。叔父がかつて幽霊が出たというような話をよく正月やお盆に集まるとしていた。私はお化けが恐かったし、うちの家には何か家族以外のものがいるのではないかと薄々感じていたのだった。というのも、なにか思いついたらメモを書いて残す癖が私には小さい頃からあり、よくテーブルの上にメモを書いていたのだが、ちょっと時間が経って見てみると、そのメモがなくなっていたからである。私はどうしたことかと思って家族に聞いてみるのだが、「知らない」「わからない」という答えしか返ってこなかった。その頃から、なにか理屈では説明のつかないものがこの世にはあるのだというふうに私は理解するようになった。後にわかったことだが、その消滅するメモの犯人は父だった。父が私がほったらかしにしたメモを、片付けるときに捨てていたようなのだ。これにしたって、メモが亡くならないように片付けておくという対処をするよりほかなく、目には見えない「家族以外のなにものか」を直接どうすることもできないのだ。結局は対症療法になってしまう。
妙な話のついでに、大学の先輩に学生のころ聞いた話だ。先輩の(ここでは便宜的に)大島さん(とする)は小さい頃から科学にすごく興味をもっていて、両親に買ってもらった昆虫図鑑を読み込んでいた。特に興味を持ったのが猛毒を持つ蜂と蜂の巣だった。恐ろしい蜂がいるものだと大島さんは恐怖したのだが、よく読めば「アフリカの奥地にだけせいそくする」とあり、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。ところが、夜布団に入り仰向けに寝ていると、天井になにか見かけぬものが貼り付いているのに気づいた。大島さんは震撼した。なにしろ、それは昼間に見た昆虫図鑑の蜂の巣とそっくりだったからだ。おそれおののき、大声を出したいところをこらえて、ささやくような声で、隣で寝ていた兄に
「たいへんだよ、あれ、猛毒の蜂の巣だよ」
と言った。すると、お兄さんは笑いながら、口に紙片を含み、しばらくくちゃくちゃとガムのように噛み、口の中で球状の塊を作ると、手でスナップを利かせて、天井へと投げた。紙の球はべちゃっと音を立てて天井に貼り付いた。その貼り付いたものは、あの図鑑で見た蜂の巣にそっくりだったのだ。お兄さんは「はっはっは」と笑った。犯人は兄だったのだ。
大島さんの話で言えば、もっともありえない世界を経験したのは、大島さん自身だし、「こっ、これはっ、ひょっとしてアフリカの蜂の巣ではないか!」と震撼する瞬間がいちばん興奮する瞬間だと思うのだ。では、ブエンディア家に突然襲いかかった妙な出来事の中でもっとも興奮したのは誰なのか。最後にこれを考えよう。
ブエンディア家に起こった超常現象の連続の後で、ウルスラが村に帰ってくる。ウルスラは、男たちが見つけることの出来なかった文明と接触する道を見つけ、行商人らを引き連れて帰ってきた。アウレリャノが突然の帰還に驚いている隣で、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは大声を上げた。
「こうなると思っていたんだ」(p.52)
そう、錬金術でもなんでもなく、彼がいちばん祈っていたのは、ウルスラの帰宅だった。これまで起こった妙なことはぜんぶウルスラの帰還の前兆だったのだというふうにまとめあげる力は、妻を思う夫の愛情以外のなにものでもない。アウレリャノもびっくりしたが、私もやはりびっくりした。ありえない。ありえないことへの応じ方がやはりこの人たち、可笑しいのだ。
しかし、ウルスラは「夫ほどうれしそうな様子は見せなかった」。この冷静な妻と情熱的なのにかわいそうな夫とその家族の話のつづきがやはり気になります。先が気になった方はぜひ本屋に走ってください。次回もつづきます。
(次回は9月14日(日)に更新予定です。)
参考文献
1. ガブリエル・ガルシア=マルケス,『百年の孤独』(鼓直訳), 新潮社, 2006
2. Gabriel García Márquez, “Cien años de soledad,” 1967
3. フジテレビ, 「ドリフ大爆笑」, 1982
4. TBSドラマ「それでも家を買いました」, 1991
* 本文中、ページ数のみを示している場合は、文献[1]からの引用です。
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