あの冬の風に刺されて

どれだけ深く息を吸い込んでも、酸素は回ってこなかった。冬の冷たい風はまるで針のように肺を刺し、肌を刺す。リズミカルに繰り返されていたはずの呼吸は、もうずっと不規則に乱れ続けている。

息が苦しい。出来ることなら足を止め、息を整え、この場に座り込んでしまいたい。

それでも、走り続けるのだ。急がなければならない。このタスキを届けなければ、繋がなければならないのだ。
芯のぶれた体に鞭を打ち、一身に走り続ける。自分の荒く乱れた呼吸以外は、何も聞こえてこなかった。

もう間もなく、中継所が見えてくるはずだ。そこには待ちわびたチームメイトがいる。届なれば、繋がなければならない。

角を曲がる。沿道には観客がいる。声援を送っているだろうその声は、やはり聞こえなかった。息が苦しい。あと50メートル。

足がもつれ始めた。チームメイトが、何か叫んでいる。その肩には、見慣れない色のタスキがかかっている。息が苦しい。あと40メートル。

もう、進むしかない。走っても走っても近付かないように感じる。砂漠の中の蜃気楼のようだ。息が苦しい。あと30メートル。

息が苦しい。苦しくて、苦しくて、どうしようもない。もう自分の呼吸の音さえ聞こえない。辺りはひたすらに静まり返っている。

その時だった。張り詰めた静寂を粉々に打ち砕いたのは、一発のピストルだった。まるで自分の肺が破裂したかのように鳴り響いたその音を合図に、チームメイトは走り出した。

タスキは、届かなかったのだ。繋がらなかったのだ。

それからのことは、よく覚えていない。
その日を最後に、走るのをやめてしまったのだ。冬が終わり春が来て、夏も秋も過ぎてまた冬が来た時も、走らなかった。

誰かに責められたわけでもない。誰も皆等しく悔しくて悲しくて辛かったのだ。けれどもその気持ちを独り占めして、誰とも分け合うことなく、走るのをやめてしまった。足しげく通ってくれたチームメイトたちも、やがては誰も来なくなった。

年が明け、またその日がやってきた。
本当だったら自分が立っていたはずの場所を、暖かい部屋でコタツにもぐりテレビで眺めていた。見慣れた顔も、見知らぬ顔もいる。自分がいなくなっても、チームは変わらず回っている。

それでいい。もう、未練はないのだから。

そう言い聞かせているのに、テレビから目が離せなかった。チームは相変わらず、上位を争うわけでもなければ、シード権を争うような順位にもいなかった。往路を終えても、それは変わらない。けれども一つ一つ確実に、タスキは繋がっている。

その晩は、目がさえて眠れなかった。

あの冷たい風が、苦しい呼吸が、まだどこかに残っている気がした。
あの日、この肺や肌を刺したあの風は、今もまたチクチクと、今度は心臓を刺している。息が苦しい。

彼らは、かつてのチームメイトたちは、この夜をどう過ごしているのだろうか。

翌日の復路も、チームは相変わらずだった。きっとテレビを見ている知らない誰かたちは、こんなチームなんて気にも留めていないだろう。自分だけが、自分たちだけが知っているのだ。そこに確かに、人生があることを。

かつてのチームは、ついに復路を走り終えた。タスキを切らさず走り終えた彼らの顔が眩しかった。しかし画面はすぐに優勝したチームのインタビューへと変わった。

チクチクと胸を刺す痛みに耐えきれず、思わず席を立ち、窓を開けた。冷たい風が飛び込んでくる。風に背を押されもう一度テレビに目を戻したが、相変わらずインタビューは続いている。

そして気付いたのだ。その後ろにかすかに映っている、かつてのチームのいびつな円陣に。

一人ずつ肩を合わせたその円陣に、一人分の隙間が空いている。

あれは自分の場所だ。

最後に走ったあの日すら、加わることのなかった円陣の、その場所がまだ空いているのだ。

それを見て、もう何も構わず家を飛び出した。
走らなくなって丸一年経ったこの体は、あっという間に悲鳴を上げ始めた。冬の、あの、冷たい風が、肺を、肌を刺した。息が苦しい。

あの日確かに、タスキは、想いは、届いていたのだ。繋がっていたのだ。
息が苦しい。けれどももう二度と、この足を止めることはない。

おしまい

冬の週末朗読会


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