看板の向こう側

チカチカと、携帯電話がピンクに光った。君からメールが来たのだ。君から届いた時だけは、ピンク色に光るように設定した。なんだか恥ずかしいような嬉しいような、こそばゆい気持ちだ。

メールを開いた。件名欄には「Re:」がいくつも続いている。君とのやり取りが何度も繰り返されている証であるそれを見て、思わず口元が緩んだ。
すると、お揃いのストラップがちゃらりと揺れた。君と初めて手を繋いだ日に買った、思い出のストラップだ。

彼女の名前はあやか。黒くて長い髪がよく似合う、世界で一番かわいい女の子。
僕の、初めての恋人だ。

朝靄の中で微笑む君が美しいと、その先の遠い空まで美しく見えた。
星が綺麗な夜になると、君はいつにも増して綺麗に見えた。

毎日欠かすことなく伝える「おはよう」とか「おやすみ」とか、そんなありきたりな言葉も、君に言う時はいつも特別な、この世界で一番の幸せをまとっている言葉のように思えた。

まあ、これは全部僕の妄想なのだけど。

2人の別れは呆気なかった。
あやかは、つまり道沿いに設置された看板に描かれている女性は、忽然と姿を消した。
というのも、ある朝いつも通りあやかに、つまり道沿いに設置された看板に描かれている女性に「おはよう」を言うべく歩いていた時のことである。その場所にあったはずの、あやかの描かれた看板は、自動車教習所の看板に変わっていたのだ。

呆気ないものだ。呆気ない。
あやかは、つまり道沿いに設置された看板に描かれている、僕が妄想の中で彼女としている女性は、いなくなってしまった。
平たく言うと、看板が撤去されたのだ。

もう15年も前の話である。

僕の初めての恋人は、看板に描かれた女性だった。

隣の席になってなんとなく喋るようになった女子ではない。
同じ委員会になり、放課後2人で居残った女子ではない。
部活動の後輩女子マネージャーではない。
いつも笑顔な優しい女性教師ではない。
何かとかまってくれる美人な先輩ではない。
もちろん、家が隣同士で毎朝起こしてくれる幼馴染みでもない。

看板に描かれた女性だった。

君は、あやかは、今どこで何をしているのだろう。
電車の窓から青空を眺め、ふと思い出した。

看板の向こうにいる「あやか」は、この世界のどこかに実在しているのだ。
なんだか不思議な気持ちになった。この事に気がつくのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。

もしかしたら、君も今まさに、どこか遠い別の場所で、僕と同じように空を見ているかもしれない。
あるいは、この混み合った車内の中にいて、知らず知らずすれ違っているかもしれない。
あるいは、あのスマホゲームで気付かないうちにフレンドになっているかもしれない。
あるいは……。

この世界のどこかで生きているであろう「あやか」に想いを馳せた。

ある日、僕の大親友が彼女と一緒に遊びに来た。
「彼女の連れもいるんだけどいい?」と言って、やってきたのが、なんと……あやかだった。
間違いなくあやかだった。

あやかは、本物のあやかは、美味しいパスタを作ってくれた。家庭的な女がタイプの僕は、一目惚れだった。

今度は、本物の、今目の前にいるあやかに一目惚れだった……。

それから、4人で大貧民をして遊んだが、あやかがいることへの動揺で負けてばかり。思わずマジギレしてしまった。
しかしそんな僕の様子を見て、あやかは笑って「楽しいね」と言った。優しい笑顔に癒されて、もう、ベタ惚れだった。

目を閉じれば億千の星。一番光るあやかがいた。

という妄想をしているうちに、33歳の誕生日を一人迎えたのであった。

おしまい

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