悪魔のクリスマス

可愛い悪魔の坊やは、大人の悪魔たちにいつも口を酸っぱくして言われていることがありました。

「いいかい、クリスマスの夜だけは、決して表に出てはいけないよ」

坊やは良い子の悪魔でしたから、言いつけを破ることは決してありません。でもこの日に限って、ちっとも眠ることが出来ませんでした。
そして、しっかりとカーテンを閉められた窓の向こうがぼんやりと光っているのに気が付きました。

皆があれだけ厳しく言うってことは、クリスマスというものは怖いに違いない、と坊やは思っていました。
あの窓から漏れる光も、人間たちが悪魔を追い払うためのものなんだ、と坊やは怖くなってベッドに潜り込みました。

でもどうにも、あの光が気になって、坊やはそおっとベッドを抜け、窓へと近づきました。
重たいカーテンをゆっくりめくると、遠い街並みがいつにも増して光輝いていました。

「なあんだ。恐ろしいって言うけれど、ちっとも怖くないじゃないか」

坊やは明るい街並みをわくわくした気持ちで眺めました。こんなに楽しそうなことを、僕に内緒でやろうって言うんだから、さすが大人の悪魔はやることが違うなあと坊やは深く頷きました。

坊やはまたそおっと窓を開け、小さな羽をはばたかせて街へと向かいました。そして街へやってきた坊やは、あることに気が付きました。

いつもは疲れた顔で歩いている人間の大人も、怒ったり泣いたり忙しい子供も、なぜだか今日はみんな笑顔でいるのです。

陽気な音楽が流れ、色とりどりの電球があちらこちらでピカピカと光っています。街を歩く誰もが幸せそうで、その気に当てられた悪魔の坊やはどんどん具合が悪くなってきました。

慌てて陰鬱な空気を探しましたが、なかなか見当たりません。やっとの思いでどんよりとした大きくて立派な家を見つけ、その中へと逃げ込みました。

書斎のようなその部屋は真っ暗で、月明かりがぼんやりと差し込んでいます。坊やはもう飛ぶ気力もなく、窓のそばにごとんと音を立てて倒れこみました。
するとその物音を聞いたのか、部屋のドアが開き、寝間着姿の老人が現れました。
身を隠そうとした坊やですが、疲れ切ってどうすることもできません。
老人は手のひらほどの小さな坊やへ明かりを近げ、しげしげと眺めると「お前は何だ?」と聞きました。

ぐったりとした坊やは、うめき声を上げる事しか出来ません。言いつけを破ったことを、深く深く後悔をしていました。

「俺が気のいいやつなら、見慣れない悪魔のようなお前を助けてやることもしただろうが……逃げ込む家を間違えたようだな」

老人はそう言うとくるりと背を向け部屋を出ようとしました。

坊やは慌てて「僕は悪魔だから放っておいたら悪いことをしちゃうぞ」と言いました。

老人は足を止め、坊やの方へと顔を向けるとぎろりとにらみつけました。

「まさか本当に悪魔だったとはな」

坊やは精いっぱいの気力を振り絞って「そうだぞ。嫌な目に合わせちゃうぞ」と言いました。

老人はそれを鼻で笑うと「クリスマスの夜に守銭奴の老人のもとへやってくるのは三人の幽霊のはずなんだがな」と言いました。
「それで、助けるとは具体的に何をすればいいんだ。悪魔の坊やよ」

そう聞かれた坊やは、言われてみればどうすればいいのかわかりませんでした。人間というのは自分がいたずらしたり悪い目に合わせたりする存在であって、助けてもらうものではなかったのです。

老人は書斎に明かりを灯し、近くのソファーに腰かけると、倒れている坊やをただじっと眺めました。

坊やは、なんて感じの悪い老人なんだと思いました。
それでも、その老人の陰鬱な空気を浴びていると、少しずつ元気になってきました。
やっと飛び立てるほどになった坊やは、こんな家とこんな街から一刻も早く立ち去りたいと思いました。
しかし、この悪魔からしてみても感じの悪い老人を、どうにか嫌な目に合わせたいと思いました。

坊やは悪魔の目を凝らして、じっと老人を見つめました。けれども、どうやっても老人の不幸な姿が見えてはきませんでした。

そんな坊やの様子を見て老人は「俺を不幸にしようって言うんだろう」と意地悪く言いました。「無駄だよ、坊や。なんたってこの俺は、もうすでにこれ以上ないくらい不幸な男だからな」

「そんな人間なんて会ったことないよ」と坊やは目を丸くしました。「悪魔に何もされてないのに、不幸な人間だなんて」

驚く坊やを見て老人は、声を上げて笑いました。

「悪魔が驚くほど、この俺様は不幸だったんだな!」

老人はひとしきり笑い終えると「不幸になれるのは、それだけで幸せってことだ。クリスマスに浮かれた他の馬鹿共のところへでも行くんだな」と馬鹿にしたように言いました。

坊やは悔しくて悔しくて、でもまだほんの小さな悪魔の坊やにはどうすることもできず、半べそをかいて老人の家を飛び出しました。
また街の陽気な気に当てられながら、ふらふらしながら家のベッドへと潜り込みました。
もう二度とクリスマスの夜は家から出ないぞ、とぎゅっと目を閉じた坊やは思いました。

翌日から坊やは老人のもとへ通っては、多くの人間たちが喜ぶであろう贈り物をしました。
それは例えばたくさんの金貨であったり、大勢の美女であったり、山盛りの食卓であったり、思い付く限りの全てを老人へと贈りました。
この孤独な老人にたくさんのものを与え、たっぷりと幸せを感じた後に、不幸の底へと突き落としてやろうと思ったのです。

けれども老人はなにをもらってもにこりともせず、顔をしかめるばかりでした。
悪魔の坊やがいくら無い知恵を絞っても、老人を幸せにすることは出来ません。

悔しがる坊やを笑う老人を、まるで悪魔みたいだと坊やは思いました。

そんな日々は、坊やにとってはあっという間でしたが、人間の、こと老人にとっては長い長い時間でありました。
老人の足腰はどんどん弱り、やがて寝ている時間の方が長くなっていきました。

何度目かのクリスマスの日の朝、坊やは力なく横たわっている老人のもとへとやってきて聞きました。

「お前、死ぬのか」

「ああ」と小さな声で老人が答えました。

「とうとうお前は、ずっと不幸なままだったな」と坊やは意地悪く言いました。

老人はまた小さな声で「ああ」と答えました。

「ついにお前は、俺を幸せにすることはなかったな」と老人は弱々しく笑って言いました。

坊やはそれには答えず、窓の外の陽気な街並みを眺め「街中の人間が噂していたぞ。あの屋敷に住む金の亡者の老人は、そろそろくたばる頃だろうって」と老人の声と同じくらい、小さな声で言いました。

「構わんさ」と老人が言ってからしばらくの間、坊やも老人も何も言いませんでした。遠く聞こえる歌声や人々の笑い声が時折響くだけでした。

やがて、老人が口を開きました。

「おい、そこの悪魔よ。お前はまだ、俺のことを幸せにしたいと思っているか?」

坊やは「え?」と聞き返しました。

坊やに構わず老人は「もしそうなら、今日一日、いや一時間でいいから、体が動くようにしてくれないか」と言いました。

坊やはその老人の願いを叶えることが、本当に悪魔として正しい行いなのかがわかりませんでした。けれども、この老人の初めての願いを、どうしてか叶えてやりたくなったのです。

そして、悪魔の力で動けるようになった老人がよろよろと向かった先は、街はずれの墓地でした。
老人は墓地の中でもひと際小さな墓の前で立ち止まると、道中で買った小さな花を手向けました。

「やっとここまで来られたよ」と老人は誰ともなく言いました。
そんな老人を、坊やはぼんやりと眺めていました。

それから老人は、坊やの方へと向き直ると、意地悪く笑って「俺の勝ちだな」と言いました。
「こいつが死んでから、俺はずっと不幸に生きてきた。悪魔のお前が手を出せないくらいにな」

坊やはふんと鼻を鳴らすと「それは誰のお墓なのさ」と言いました。
「俺にも昔は恋人がいた。もう何十年も前の話だ。だが生まれつき体が弱かったそいつは、あっという間に死んじまった。そして臆病で偏屈な俺は、それを受け入れられずに、墓も参らず、ただ金を稼ぐことに執着した」

老人は墓の前でひざまずくと、墓石に刻まれた名前をしわくちゃの手で何度も撫でました。
坊やはやっぱり、その姿をぼんやりと眺めていました。

やがて老人は手を止めて、小さく羽ばたく坊やを見つめ、また意地悪く笑って「お前に会えて、楽しい日々を過ごせたよ。家族も友人もいない俺の人生で唯一、俺の幸せを考えてくれたのは悪魔の坊やだけだった」と言いました。

「それに、この墓にこれたのもお前のおかげだ。なに、簡単なことだったんだ。ここにさえ来ていれば、もっと違う人生があったかもしれない」

老人はだんだん弱々しくなる声で、そう呟きました。
灰色の空からは、ちらちらと雪が舞い始めました。

そうしてもう一度意地悪く笑うと「今度から街は大変になるぞ」と言いました。坊やは「どうして?」と尋ねました。
「この街の悪魔は俺にご執心だったからな。おかげで街は幸せで……いや幸せにも飽きてきたころじゃないかな」

老人はそれだけ言うと、もう何も喋らなくなりました。
坊やが話しかけても、墓石に寄り添うだけで、何も答えません。
雪は相変わらずちらちらと舞い、少しずつ老人の体へと降り積もりました。

坊やはそれをだいぶ長いことぼんやりと眺め、やがて日が暮れ街明かりが色とりどりになったころ、家へと帰りました。

今日この、人々が幸せそうなクリスマスの夜だけはおとなしく眠ってもバチは当たらないだろうと思ったのでした。

おしまい

秋の週末朗読会


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