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人生の急展開。

「つ、妻があの東京コミュニティスクール(TCS)の理事長に就任する!?」

人生は急展開の繰り返しだ。
とくに、娘が生まれてからは自分の足で歩いているのか、なにかに押し流されているだけなのかもよくわからない状態。

緊張しながら「どうしよう」と言ってきた妻に、ぼくは一も二もなく「断わる理由なんかどこにもないよ」と答えた。

でもそれは、ふたりで創ろうと言ってきた小学校創設が、ぼくにとっては白紙になるということでもあった。

ぼくは、40歳にして大きな夢が叶い、そして同時に夢を失い、いま新しい人生に向けてよちよち歩きを始めようとしている。

2年半前。
当時3歳だった娘の教育環境をガラリと変えようと、東京から京都へと移住してきた。
東京にいたときに通っていた保育園も、とても素敵で大好きだったのだけど、エネルギーを持て余す娘をもっともっと遊び回れる環境へ連れて行きたかった。
京都に決めるまでも紆余曲折あったけど、とにかく素晴らしい幼稚園と出会うことができ、弾丸で移住。
森や山に囲まれた環境の中で、新しい生活がはじまった。

仕事は、NPOの活動を引き続き行っていた。でもこっちに来てからは助成金をとったり、色んな事業を行うようなことはせず、講師業とモヨウ替えのコーディネート、それと執筆業務に注力してきた。
と、いうのも京都へ移住するにあたって、もうひとつやりたいことがあったのだ。

それは、新しい学校をつくること。

そもそも移住のきっかけになった、娘の教育環境を調べているとき。
幼児教育はとても多様なのに、小学校教育はなんて選択肢が少ないんだろうとガッカリした。

そのときに出会ったのが、TCSだった。

「小学校はまだ先だけど」

と思いながら、教えてくれた方の勧めで夫婦で見学へ。

その時の子どもたちの様子、授業の面白さ。その日はみんなで百人一首をやっていたのだけど、自発的に楽しみを見出し、子ども同士で共有しあい、年齢をまたいで楽しみながら学んでいる姿。
たったの一日だったけど、それはぼく達夫婦が知っている小学校の姿とはまったく違っていた。

妻は、その学びのあり方にゾッコン惚れ込み、

「わたしも、小学校をつくる!」

と決めてしまった。
妻が勝手に決めて、妻が自分でやるだけなら、ぼくはただの応援者だ。
これまではそうだった。お互いが自分の意志で起業し、自分の意志で好きに仕事をしていた。

でも、妻の宣言を聞いたとき、

「一緒にやりたい!」

と思ってしまったのだ。それは、夫婦ということではなくて「この事業に自分も参加したい!」という魅了のされかただった。

以来、京都へ来てから「小学校をつくるんだ!」とここまで活動してきた。

妻は、TCSへ単身赴任でインターンへ。
ぼくもラーンネット・グローバルスクールという神戸のオルタナティブスクールにインターンに行った。

その後、妻は奈良クラブというサッカークラブと共に学校をつくるべく、奔走し続けた。
でも、あと一歩だった構想も道半ばで途絶えてしまった。
その後、いくつかの候補地の見学を前にコロナの猛威が訪れた。

小学校創設は、簡単には進まない。
色んなことがストップして、何より大切な「場所」を決めることができずに途方にくれていた。

そんな矢先。

「TCSの理事長就任しないかって言われた」

と、妻が言った。

ずっと憧れ、のれん分けのような形で、その学びの型を継承したいと思っていた学校を、引き継ぐ。
想像すらしたことのなかった話に、妻はもちろん、ぼくも動揺した。

妻がTCSの理事長に就任するということは。
妻にとって、目標とし続けた学校創設が、思いもよらぬ形で実現することだった。
娘にとっては、最高の環境を与えてあげられることになる。

ぼくにとっては。妻が夢を叶え、娘は素晴らしい教育環境に入れる。家族が幸せになる。

...あれ、ぼくは。東京に戻って、なにをするんだろう。

妻は、ある意味ではぼくよりも、ぼくのキャリアのことを心配してくれていた。
彼女が、就任をわずかでも躊躇する理由があるとすれば、それはぼくのキャリアのことだった。

「あなたが、どうしてもこっちで学校を創りたいって言うなら、無理に受けなくてもいい」

と言う妻を、ぼくは必死に止めた。
だって、パートナーに訪れた最高のチャンスと挑戦の機会を、自分の身の置き方が見えないからって留めるなんてあり得ない。
それに、もう40にもなるいい大人だ。
自分のことは、自分でどうにかする。

ぼくがこの瞬間、何よりもやらなくてはいけなかったのは、妻が抱えたぼくへの不安を払拭することだった。

東京に行くまでまだ半年くらいある。その間にのんびりと自分の次の目標は見つければいいや。そう思っていた。

でも、次の目標は案外すぐに見つかった。


これまで、学校創設に向けて色々と調べたり、話を聞いたりしていく中で、ぼくにとっての学校の意味が見えてきていた。

それは、子どもたちが安心して「ただいま」と帰ってこられるような場所。

ぼくにとって学校は、ずっとずっとアウェイだった。でも、ラーンネットグローバルスクールへインターンに行ったときに「ここは、子どもたちが卒業しても帰ってこられる場所なんだ」と感じた。

だから、創るなら、子どもたちにとってそういう場所でありたいと思うようになった。

結局ぼくは、子どもの頃からずっと変わらずに「ただいま」と帰れる場所にこだわり続けているようだった。

その想いはやがて、不登校の子どもたちへと向いていった。彼らにとって学校は、帰る場所なんかではないし、中には家も苦しいという子だっている。

全国に14万人もいる不登校。

この子たちを苦しめている要因のひとつは、周りからの不理解だ。
いろんな事情で不登校になっていくから、全てとは全然言えないけれど。親や、周りの大人がその子の不登校を理解し、受け入れることで、不登校との向き合い方は大きく変わる。

また、このコロナ禍でオンラインで学べる環境が珍しくなくなり、学びの形も多様になっていくのだと思う。

ぼくは、いまの不登校。これからの不登校のあり方を知りたいと思った。

それを、物語として伝えていきたいと思った。

京都へ来てから、ずっと文章を書き続けてきた。いつの間にかそれが、自分の中で欠かせないことになっていた。
この歳になって。
できる、できない。うまい、へた。ではなくて、単純にやり続けたいと思えることに出会えたのは、奇跡かもしれない。

自分の中にいつの間にか膨らんでいた「不登校」というテーマ。
自分の中でいつの間にか欠かすことのできなくなっていた「文章を書く」という手段。

このふたつを掛けあわせてみようと思う。


ぼくは、ノウハウやハウツーではなくて。
不登校をとりまく、いろんな人たちの物語をノンフィクションという形で書くことにした。

すでに、取材ははじめている。
あまりに膨大な作業と、見えないほどに奥の深い世界にめまいがしているけれど、これが自分の次の使命だって勝手に思い込んでいる。


ぼくは、40歳にして(妻がTCSを引き継ぐという形で)大きな夢が叶い、そして同時に夢を失い、いま新しい人生に向けてよちよち歩きを始めようとしている。

人生って、こんなにも何が起こるかわからないものだったっけ?


では、また明日。

妻の近況報告noteはこちら。



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