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勉強にも仕事にも繋がらない遊びに夢中になることへ罪悪感を投げ捨てる。

「意味」のないことを、避けてしまう傾向がある。

意味がない、と言うか、意味を自分の中に見い出せないこと。本を読むにしても、ゲームをするにしても「なんのためにやってるのか」を頭で考えないとのめり込むことができない。

「それをして、だからどうした?」

に答えられないことを、つい避けてしまう。

思考が未来へと先回りしてしまうのだ。
そのとき、ぼくは「いま」という瞬間を確実に見失ってしまっている。

写真を撮って、その写真をどうする?
絵を描いて、その絵をどうする?
何かをコレクションして、それをどうする?

いつだって、面白そうな何かと出会ったとき「で、それをどうするの?」という疑問が頭をよぎってしまう。
嫌な言い方をすれば、実益があることしか手が伸ばせなかった。

じゃあ、実益がないことは無意味で好きじゃないのか?

もちろんそんなことはない。ただ、好きになることに罪悪感を感じてしまうだけのことだ。ケチくさく実益ばかりを気にするなんて、なんてもったいないのだろうか。

誰しも、子どもの頃「遊んでばかりいないで、勉強しなさい」なんて言われたことがあるだろう。
ぼくは、わりとその言葉を真正面から受けとめてしまった部分がある。

「遊ぶ」のは「勉強」の妨げで、むしろ無駄で悪い時間の過ごし方だと思っていた。
「勉強」は大人になったことで「仕事」に置き換わり、仕事をしている時間こそが有意義な時間の使い方だと無意識に考えるようになった。

だから、勉強にも仕事にも繋がらない遊びに夢中になることへ罪悪感を感じてしまっていたのだ。

でも、子育てをする中で少しずつその考えが消えていくのを感じている。

娘は、勉強も遊びもあまり境がない。

朝起きて、遊ぶように字の練習をはじめる。
終わったらさっさとSwitchに興じ、けん玉の練習をし、お絵描きに夢中になる。算数問題はクイズになり、公園に行けば葉っぱを観察する。

遊びも勉強も、ごちゃごちゃに混ざり、そのどれもに真剣になる。

「あぁ、なんて素敵な生き方だろう」

7歳の娘の生き方に、憧れを抱いた。

もう、遊びとか仕事とかに囚われなくていいな、と思った。

意味のないことを愛すると言うのは、「いま」を愛するということ。

未来のことばかり考えてケチくさく生きるより、いまを一生懸命に楽しんだ方がいいなと、娘から教わった気がする。

では、また明日。

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