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大切な日常を、大好きな文章という形で残しておきたい。

目の前で子どもが道路の側溝を顔が食い込むような勢いで覗いていた。
網目状の隙間から何が見えるのか、四つん這いになってじっと見入っている。

「いい”作品”を撮ろうと言うより、いつもの風景を忘れないように残しておきたいんです」

”側溝を覗き込む子どもの写真”を撮った友人が説明してくれる。

その言葉の通り。彼の写真はどれも子どもと過ごした日常の一枚。その瞬間を切り取った一枚の写真だけではわからないけど、普段の子どもたちとのエピソードや記憶が写っていない背景にたくさんあることが伝わってくる。

これらの写真は、何よりも第一に「家族のため」の写真で、「未来の家族」に向けた写真でもあると感じた。
ぼくは写真には詳しくないけど、家族への記憶のワンシーンは、変に作品然としようとしないところが魅力的だった。

思えば、ぼくが文章を書き続けているのも同じような理由だった。

「すごい作品」としての文章を目指すのではなくて、日常の記憶だ。
ただ、写真展に作品を出すのと同じで、こうして公開するからにはただの家族の記念写真と言う訳にはいかない。
だから、自分なりに工夫もするし、考えもする。
けど、やっぱり根底にあるのは「日常」なんだと思う。

「日常」だから、毎日書き続けられる。

人に会うとよく「毎日書き続けていてすごい」と言ってもらう。約3年間、毎日毎日noteを更新し続け、仕事でも執筆の機会をもらうことも多い。

たしかに、100日くらいまでは「誰でもできること」と思っていたけど、1000日近い毎日更新はもう「誰でもできること」とはぼくも思わなくなった。
書き続けることに、メリットや利益を求めるなら、毎日更新のメリットなんてとっくに頭打ちになっている。
はっきり言って1000日も1100日ももはや誤差の範囲だ。そのくせ、毎日更新は失うものも多い。

それでも続けているのは、それが「日常」だからだし、何より「好き」だからでしかない。

ぼくは。
大切な日常を、大好きな文章という形で残しておきたい。

日常には苦しいときもあるし、文章を書くのが嫌でバカらしくなることもある。
けど、それも含めて記憶なのだ。

文章は発信のための手段だと思っていた。
けどいまは、何でも入れられる「器」のようだなと思う。

何を入れてもいい。
何かを引き立てることもできるし、
器自体が、美しく価値を持つこともある。

「手段」ではないと思うようになって、素直に文章を書くことが好きだと思えるようになった気がしている。

写真の中の子どもは、一生懸命側溝をのぞき込んでいる。中に何があるのかはわからない。大人にはわからない何かがあるのかもしれない。

でも、そんなわが子を愛おしく思いシャッターを切ってしまう気持ちはわかる。

自分だったら。
わが子のそんなシーンを見たあと、どんな文章を書くのだろう。
やはり「いい作品」よりも「いつもの風景」を忘れないように、書こうとするだろうな。

では、また明日。

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