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3分の遅刻。

スクールが終わり、迎えに行くと娘が泣きながら抱きついてきた。

「パパが来ないから心配になった」

彼女は泣きながら訴えてきた。泣きじゃくる娘を心配して、お友達が集まってくる。
「どうしたの?」「何があったの?」「大丈夫?」
こういうとき、声をかけられるほど涙って止まらなくなったりする。娘も高まっていた感情に勢いがついて、ますます泣きじゃくった。

時計を見ると、待ちあわせの時間から3分が過ぎていた。

「たった3分。いや、実際には1分か2分遅くなっただけなのに」

と、モヤモヤとした気持ちにならないでもない。もう幼稚園児でもないし、ひとりきりで知らないところで待っていたわけでもないのにと。

子どもたちに囲まれ「どうしたの?」と聞かれれば答えざるを得ない。「ちょっと迎えに来るのが遅くなっちゃってさ」と。
半ば強制的に理由を口にさせられるたびに、モヤモヤとした気持ちは膨らんでくる。「3分の遅刻ってそんなに大罪?」と。このモヤモヤがイライラに変わるのは目に見えていた。

大きく呼吸をふたつほどする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

ここでモヤモヤがイライラに変換されるのを黙って見過ごせば、この後何倍もしんどくなるのはわかっていた。今のうちに対策をしなくてはならない。

ふと時計を見るとすでに15分が過ぎている。
もう5倍ものコストを支払ったことになる。

でも、ふと思った。
人は体感する時間と感情がそのまま結びついている。3分の遅れが問題なわけじゃない。15分も泣いてることに付き合っていることが問題じゃない。

問題は、ぼくの時間の中では遅れた3分はわずかな時間で、娘を慰めている15分は恐ろしく長いが、娘の時間の中ではそれが真逆であるということ。

時間の感じ方は、それぞれが全く違うのだ。

なにも小難しいことを考えて誤魔化したいわけじゃない。単純に「それぞれが抱えているナラティブ(物語)は違う」ということを理解しようとしなければ、すれ違いは解決しないと言うことを思ったのだ。

お互いに言い分があり、その言い分を相手の立場で理解しようとしなければ対話はすれ違ったまま、どこにもたどり着かない。

大人同士なら、お互いが歩み寄ることもできるかもしれない。

けど、子どもの場合。こちらのナラティブを同じように理解してもらうのはなかなか難しい。
だけど、挑戦してみる価値はある。

急いできたこと、急な呼び出しだったこと、ギリギリ着いたけど待ち合わせの場所が朝と少し違っていて探していたこと。
娘の知りたがったことは、なるべく丁寧に伝える。

娘は、他のお母さんが迎えに来てるのにまだぼくが来なかったことで不安になったし、事故にあったんじゃないかと心配したのだと言った。

あとは、疲れてお腹が空いたのだと言う(笑)

お互いがどれだけ寄り添いあえたのかはわからない。ただ、イライラして責合うだけじゃない対話はすることができた。半分くらいは聞いてなかったかもしれないけど。

最後には「心配なら携帯で連絡すればいいよ」と言うと「携帯のこと忘れてたー!」とズッコケていた。


子どもって面倒くさいなぁって思うけど、大人同士の対話もさほどやることは変わらない。だとしたら、わだかまりなくすぐに笑い合えるだけ、子どもとの対話の方が素直かもしれないとも思う。

では、また明日。

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