子どもが「普通」かどうかを気にするのがヤバイ理由。
「子どもが「普通」であるかどうかに気を病むのは時間の無駄だよね」という投稿に「確かになぁ」と共感しました。
子どもが「普通」かどうか、を親が気に病むというのは子どもに対して「あなたの評価、価値は他人との比較で決まるよ」というメッセージになりかねないなと思うのです。
「普通」がいいの? 「普通」じゃダメなの?
わが子に対して「普通であってほしい」と思っている親もいれば、「普通じゃダメだ」と思っている親もいると思います。
この違いは、わりと親の教育観にあらわれる気がしています。
そして、ぼくはどっちの価値観も同じくらい危険だよなぁって感じるのです。
それを象徴しているなと思ったのがこの記事。先日もシェアしたのですが大切なことを言ってると思うので、再度リンクを貼っておきます。
マラソン大会で順位付けをしている日本の教育に対して、フィンランドから視察に来た校長が苦言を呈しています。
順位が少しくらい上がったからなんだって言うんですか?
もともと運動はとてもいいことなのに、こうすることで嫌いになる子がいるんじゃないですか?
「普通」へのこだわりは、この大人が描いた競争意識のなかに子どもを当てはめることのように感じるのです。
順位が低ければ、普通に人並に走れたらいいのに、と思うし。
順位が高ければ、普通じゃなくてもっと早く走れる方法があるはずだ、と思う。
まさに不登校になれば、普通に学校に通ってくれるだけでいいのに、と思い。
普通なんかじゃヤバイ、物足りないと思っている親は英才教育、グローバル教育に目を向け始める。
不登校も英才教育もグローバル教育も、そのどれかが良いわけでも、悪いわけでもなくて。
何よりも大切なのは、子ども自身が何に夢中になるかだし、親としてはその可能性を広げてあげることと、夢中になってることを後押しすることなんじゃないかと思うのです。
つまり、主体はあくまでも子ども自身にあって、親や周りが「こっちに行けー!」と手綱を引いてしまうことが、果たして子どもにとっていいことなのかな? と。
合わない、を受入れる覚悟
ぼく自身、いまでこそオルタナティブ教育に関心を持ったりして、学校をつくろうとしたり、素晴らしいと信じる教育環境を目指して移住したりしています。
でも、ぼくたち夫婦が与える環境が娘にとってベストかどうかは、やっぱりわからないのです。ぼくたちの思うベストであることは間違いないのだけど、それを娘が拒絶したり、合わなかったりしたら、もう一度環境を見直すだろうと思うのです。
環境を変えるのってめちゃくちゃ大変なので、あまり考えたくないですが、娘がわくわくとした毎日を過ごせる場所を、どこまでも探す覚悟はできています。
いまは、公教育に対してわりと「このままじゃいかん!」と思っていて、いい先生に当たるかどうかの博打みたいな環境に疑問を持っています。
でも、もしも娘がそっちを望み、そのほうが活き活きできそうだとなれば、公教育を否定する理由はありません。
親として、信じている教育観が強固であるほど、柔軟であることは難しく、それ以外を否定しがちになってしまいます。でも、だからこそ子どもを主体に考えることを意識しておかないとなと思います。
そこで、他者との比較を持ち出すと、この子のためにできることが制限されてしまいます。
子どもが普通かどうかを気に病むのは時間の無駄
子どもが「普通」かどうか、を親が気に病むというのは子どもに対して「あなたの評価、価値は他人との比較で決まるよ」というメッセージになりかねない。
人と同じだから安心だとか、人と違うことをしてるからすごいとか、親は一旦他人のことは置いておいた方がいい。
親がそういう基準で子どもを評価していたら、いつまでも子どもは大人が描いた競争意識のなかへ放り込まれることになってしまうのだから。
では、また明日。
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