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なんのための「フェア」なのかな?

「フェア」であるってことについて、なかなかにむつかしいなと考えています。
家事シェアするときに、どうしても出てくるのがこの「フェア」という視点。言い方がすこしむつかしいのだけど、「フェア」であることってどのくらい大事なんだろう、と。
なにを持って、フェアということなのか、ってことかもしれませんが。

家事シェアに関して言えば、けっして5:5の分担率が理想で、正解で、目指すべき形であるとは思っていません。
働き方や、こだわりや、好き嫌いやいろんな要素が絡み合うので、家庭によってベストバランスは違うだろうと。

いっぽうで、意識のフェアはどうだろうか。
「夫婦がお互い、家事育児を同じように主体的にやるべきだよね!」という考えはきっとフェアなのだと思います。ぼくもずっとそう思って、活動の中でもそう言い続けていました。

でも、最近になってすこし思うのです。

「ちょっと、息苦しいな」と。

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ぼくは家事育児のスキルについて性差はないと思っています。脳科学的にあるとか言われたりもするみたいですが、後天的に補ってあまりある程度の差だと思います。それよりは個人差のほうが大きいんじゃないだろうか。

なので、夫婦がお互いに同じように家事育児を担うことが、スキルとして不可能だとは思っていません(いまどき、そんなこと思ってる人も少ないかもしれませんが、念の為)

ですが、社会的なバイアス(偏り)はかなり大きくて、長時間労働の問題から、女性が家事育児はするべき、みたいなジェンダー的な価値観の問題やらいろいろとあります。

そうしたバイアスを多かれ少なかれ抱えながらぼくたちは暮らしている。

だから「家事育児については、ママのことをちょっと立ててくれるだけで、ママとしては嬉しい気持ちになる」
「仕事のことなど、パパは頼られるだけで、ちょっと嬉しい気持ちになる」
なんてことも、わりと聞いたりします。

フェア、を考えた時。
「子どものことは、やっぱりママが一番よくわかってるよね〜」じゃなくて「俺だって、同じように子どものことできるよ」と言いたくなる。

「わが家の大黒柱には、バリバリがんばってもらわないと!」じゃなくて「ふたりで協力し合いながら、家計もやりくりしよう」と言いたくなる。

ぼく自身の価値観が完全に後者側なので、そのほうがいいじゃん、って思いがちになってしまう。

けど、それだけじゃないんだよなと、最近思います。
社会的なバイアスは、解消していかないといけないと思う。だけど、個人個人の価値観ってそんな簡単には変わらなかったりもします。


「フェアであること」を目指して、もしも夫婦が苦しくなってしまうのだとしたら。いったい何のための「フェア」なんだろうとも思うのです。
フェアであることで、お互いが心地よい関係を築いていけないと、意味がない。


だからフェアであるというのは、つまりお互いを尊重しあっているということ、なのかもしれません。


では、また明日。

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