Vol.1 ミャンマーでソーシャルビジネスを始めた僕の原点
ミャンマーで事業をはじめて二年がすぎた。少し事業が落ち着いて時間ができたのもあって、最近良く「なんでミャンマー選んだんですか?」って聞かれるから、せっかくやから振り返りも兼ねてnoteに書いてみようと思う。
興味があれば読んでみてくださーい。
何と言っても始まりは大学一回生の時。アメリカ帰りの半分ドレッドヘアにいつも際どい服装をしてる英語の先生(恩師)との出会い。なにやら彼女はビルマという国の難民支援たるものをやってるらしかった。「ビルマってどこなん」「難民ってなに?」そんな所からスタートした。懐かしい。
彼女の友人で、ビルマから難民として日本に逃れてきた人が、ビルマとタイの国境の難民キャンプを支援してて、ドキュメンタリー映画をとってるから、その上映会の運営リーダーをやりなさいと。
。。。え?ちょっと情報量が多すぎてなに言ってるかわかんないっす、とサンドイッチマンが登場しそうになる。まぁでも、時間とエネルギーだけは有り余ってるし、面白そうやしやってみるか!と思って、「えーよー」と二つ返事で答えた。若さ故かまだ高校生のノリでタメ口を聞いておりました。
運営メンバーも十人くらい集まり、順調に広報も進み、上映会当日は半分お祭り気分。その日が僕の運命の日になるとも知らずに。
朝、キャンプを支援してるビルマ難民のKさんと対面。難民と聞いていたからどんな人かと思ったら、物腰の柔らかい、でも同時に瞳の奥に強さを感じさせる背の低いおじさんだった。(今では恩師であり、親友)
「ほぉ、これが難民と呼ばれる人か。」イメージと違った。良くテレビでみるアフリカで飢餓に苦しむイメージとは全然違う。いろんなハテナが頭の中でぐるぐるした。
そのまま朝ごはんを食べながら、Kさんの話を聞いた。すごかった。壮絶だった。1988年、ビルマではクーデターが起こり、軍部が強硬に政権を奪取。厳しい軍事政権時代に突入した。それに反対したKさん達学生が立ち上がり、軍事政権に対してデモを開始。一方は平和的なデモを、他方では武器をとって反軍政武装闘争を始めた。Kさん達は平和的な反政府活動のリーダー核として学生を引っ張った。しかし、次第に軍事政権に目をつけられ、命の危険を感じ、命からがら日本へ逃亡。日本で難民として認定を受け、保護される形になった。当時ビルマに残った活動家の多くは逮捕、拷問、失踪、など命の危険に晒されたらしい。
そんな話を朝から聞かされ、僕たちは絶句。当時民主主義を勝ち取ろうと旗を上げたのは、僕たちとたいして歳の変わらない学生達だったんだもの。
「俺、なにやってんねん!」
大学に入学し、帰国子女やすごい奴らに囲まれ、毎日授業について行くだけでも必死だった。一方で、社会の不平等さ、不自由さはいつも感じていたはずなのに、なにもしてこなかった自分を恥じた。
「学校なんか行ってる場合か!」
道を誤った瞬間だ。笑
Kさんの話を聞いて、難民とか、貧困とかは良くわからないけれど、この溢れるパワーを思いっきり使って社会を変えたいと思った。
そのあと、難民キャンプでの話、日本にもたくさん難民の人がいる話を聞いた。
ビルマとタイの国境地帯には、軍政の迫害を受けて、タイ側へ逃れたカレン民族の難民の人たちが十万人以上いるという。キャンプという移動の自由も、仕事や教育の機会も制限された世界がそこにはあると。
そして、もう一つは日本にも難民がたくさんいるという話。日本には何万人と言われる難民申請者がいるけれど、ほとんどは認定されず、就労も許されず、社会から孤立して生活していると。
「なんじゃこりゃ!」
世界はどうなってる。自分がこれまでなに不自由なく生きてきたのに対し、こんなにも世界には、ましてや日本にも苦しんでいる人たちがいる。
「彼らのためになんとかしたい!」強くそう思った。あの日僕の心についた火が、今もそれ以上にもっともっと大きくなり燃えている。
その日の帰り道、二つのことを決めた。一つは、日本に難民として逃れた人のために活動をすること。そしてもう一つはカレンの難民キャンプに行くこと。Kさんに何度もお願いして、連れて行ってもらう約束をした。
一つ目の日本に来た難民の人たちのための活動は、そのあとすぐに仲間を集めてPASTELという団体を作って支援を始めたけれど、ここでは長くなるので割愛。
それから数ヶ月後、Kさんから連絡が来た。キャンプに連れて行ってくれることに。
すでに民主化活動家Kさんと出会ったことで、僕の人生は狂い、、動き始めたわけやけど、このキャンプ訪問で本当に人生が360度方向転換することになる。360度は回りすぎた。180度。
ただ無電力農村部ではこれ以上パソコンの充電が持たないので(夜11時)、続きは次の機会に。
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