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現代小説訳「今昔物語」【盗人が為したこととは?】巻二十九第一話 西の市の蔵に入りし盗人のこと 現代小説訳

 今も昔も、一度道を誤ったものが社会生活に復帰するのは難しいものです。「多様な機会が与えられ、何度でも再挑戦が可能となる仕組みを作っていく」と、いつかの政治家も理想に上げていたように、理想の対にある現実は機会は一度きりであり、挑戦は何度もできるものではありません。さて、失敗した者の末路は如何なるものでございましょうか。

 完全に包囲されている。蔵の戸をわずかに空けた隙間から外をうかがうと、少なくとも十人以上はいるだろうか。正面に四人。見える範囲で右に三人、左に二人。白の狩衣かりぎぬ姿の検非違使※1だけでなく髭面の放免も幾人かいる。戸のすぐ外に陣取る放免はほこを持って命令を待っている様子だ。
「通りに向かうこちら側にさらに人を集めよ。絶対に逃すな」
 この声は、もしや。男は隙間から右を見た。ちらとしか見えないが、青色の法衣が見える。あれは六位の蔵人のみ着用を許されたものだ。間違いない、上の判官ほうがんが来たのだ。
男は、正面の放免を手招きして呼んだ。
「上の判官に申せ。馬より降り、この戸のそばに来なされ。お耳に入れたき儀がござる、と」
 うなずいた放免の姿が右に消える。

 放免が盗人の言葉を伝えると、上の判官は戸のそばに近寄った。
「盗人の戯れ言に耳を傾けるなど、よろしくありませんぞ」
他の検非違使が押し留めたが、上の判官は「これには何か仔細があるのであろう」と言い、馬から降りて土蔵のそばに近づいた。と、土蔵の戸が開き、「お入りください」と声がする。上の判官は逡巡もなく入ってしまった。すぐに音を立てて戸が閉められ、中から鍵がかかる音がした。検非違使たちは、驚いて蔵の入り口に集まって戸を開けようとしたが、びくともしない。
「これは、えらいことだ」
「土蔵の中に盗人を追い込んで、ようやく捕らえようという時に、上の判官が盗人に呼ばれて中に入り、鍵までかけられるなんて」
「こんなことは聞いたこともない」
 検非違使たちは口々にそしり、腹を立てたが、分厚い土蔵の戸の前では詮無いことであった。
 
 しばらくして、戸が開いた。すぐに検非違使たちが集まってきたが、上の判官は何事もなかったかのように出てきて馬に乗った。その背後で戸が閉まり、何人かの検非違使が舌打ちした。
「この男は捕らえてはならぬ。奏上せねばならぬことがある故、しばらく待て」
 上の判官はそう言って参内するために駆けていった。その間、検非違使たちは周りを囲んでいた。一人が試しに戸を開けようとしたが、固く鍵がかけられていた。
 仕方なく、思い思いに腰掛ける場所を見つけ、検非違使たちは待った。目や耳は、土蔵に向けられていたが、何の物音もせず、戸が開くこともなかった。
 やがて、上の判官が戻ってきた。蔵のすぐ前まで早駆けで来ると、馬の足が止まるのも待たず言った。
「宣旨である。この逮捕は行ってはならぬ。速やかに引き上げよ」
 宣旨とあらば、どうしようもない。検非違使たちは何も言わず引き上げていった。
 上の判官は一人とどまり、戸を背にして立っていた。まるで、盗人を護るかのように。そうして、蔵の壁が夕焼けに染まり、やがて、宵闇に溶け込む。辺りに人がいないことを確認して、上の判官は戸の開き口に語りかけた。
「聞こえるか?」
 すぐに返事はなかったが、人が動く気配があり、「はい」と小さく応える声が聞こえた。
「天皇は確かにお主の言う歌をご存知であった。幼い頃、屋敷にいた者に相違ないとおっしゃられた」
 そう言うと、蔵の中で泣いている気配があり、すぐに大声を上げて泣き始めた。上の判官は少し困り顔でしばらく待った。落ち着いた頃を見計らい、
「お主に預かったものを置いていく。どことなりと行くがよい」
 風呂敷に包まれたものを戸の前に置き、上の判官は内裏に帰った。
 盗人は土蔵から出ると、風呂敷包みを胸に掻き抱き、左へ、大通りの反対に向かって駆けた。その後彼がどうなったのか、そもそも何者だったのか、事の次第は誰にも分からなかった。
 
※1 検非違使…現代の警察のようなもの。非違ひいを検ずる使い。非違(不法、違法)を検察する天皇の使者の意。
※2 放免…刑期を終えて出獄し、検非違使の手先として奉職した者。なんとなく、「PSYCHO-PASS サイコパス」の「監視官」と「執行官」を思い浮かべてしまいます。

ちょこと解説

 この話は「今昔物語」巻二十九の第一話です。巻二十九は、「本朝悪行に付く」という表題がつけられ、「悪行」にまつわる話が収録されています。その第一話なのですが、原文は上の判官と盗人の会話、天皇の宣旨の内容が描かれていないので、盗人がなぜ涙を流すのか、なぜ許されたのか分からないまま終わってしまいます。その場の盗みは見逃してもらいますが根本的な救いになっていないところに、「今昔物語」の冷徹な人間観察の視点があります。

【参考文献】

新編日本古典文学全集『今昔物語集 ④』(小学館)

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