見出し画像

現代小説訳「今昔物語」【べん、べ、べん、べん♫ 第一部】巻二十四第二十三話 源博雅朝臣、会坂の盲の許に行くこと 24-23

 今も昔も、人が心の底から学びたいと思ったとき、その人はもう既に学んでいるものでございます。ここでも、琵琶の名手、源博雅みなもとのひろまさが曲を学ぶために山道を歩いています。べべん♪

 山科から東へ山道を進んだ奥深くに逢坂の関はある。京から東国に抜ける道なので、山の勾配の割には人出がある。商売なのだろうか、大きな荷物を抱えた商人風の人が多い。博雅ひろまさは手ぶらであった。目的が目的である。何も、道具などいらない。ふと、足を止めて汗を拭くと、高く澄んだ鳥の鳴き声が夕暮れに吸われていく。まるで歌うような美しい鳴き声だ。京では聞かないので、山の鳥のものだろう。もうすぐか。博雅は疲れた足に弾みをつけた。
 「流泉」、「啄木」を弾けるものがいる。そう聞いてから博雅はいても立ってもいられなかった。「流泉」、「啄木」は唐からもたされた琵琶独奏曲である。門外不出の秘曲として限られた楽士のみの間で伝承されていたが、その伝承が途絶えていた。
 失われたと思われていた秘曲が失われていなかった。人から人へ、伝えられたに過ぎないうわさ話を、博雅は人脈をつかってたどり、そのものの名が蝉丸ということ、盲目であり、逢坂の関に住んでいることを突き止めた。そして、使いのものを通して京に来て住んではどうかと誘ったのだが、返事はもらえなかった。代わりに、和歌をいただいた。

 世の中はとてもかくても過ごしてむ宮もわら屋もはてしなければ
 (この世の中は、どのようにしてでも生きていけるものです。美しい宮殿も、とても粗末なわら屋でも、結局はいつかは無くなってしまうものですから。)

−−−丁重に断られたものだな。
 山奥に居を構えるに至った蝉丸の人生を慮れば軽々に誘っても断られるだけだと、考えれば分かりそうなものだが、あの時は秘曲を知りたくて聞きたくて、その思いだけが先走ってしまった。それから三年に渡り、博雅は蝉丸の庵をこうして訪ねている。しかし、蝉丸は「流泉」、「啄木」を弾こうとはしなかった。寡黙な盲人は、その理由を語らなかったが、今日、八月十五日、博雅は再び蝉丸を訪ねようとしていた。
 逢坂の関に着いた頃には日も暮れていた。満月がおぼろに霞み、気持ちのいい風が下葉をかすかに揺らしている。
−−−何とも興ある夜ではないか。蝉丸は、こんな夜こそ「流泉」、「啄木」を弾くのではないか。
 逸る気持ちに合わせて踏みしめた足はしかし、そろりと止まった。虫の音に重なるようにして、琵琶の音が聞こえたように思ったのだ。息を止めて耳を済ませると、確かに琵琶の音である。博雅は駆けた。
 蝉丸のわらをふいた庵は朧月の光に沈むように佇んでいた。蝉丸は曲ではなく即興で、音から音へ赴くままに、音から無音に流れるままに、思うままに琵琶を奏でているようである。さらに、琵琶に合わせて和歌を詠じた。

 会坂の関の嵐の激しきに強いてぞいたる夜を過ごすとて
 (会坂の関を吹く嵐の激しさに、眠ることなく一夜を過ごそうと、じっと座り続けているのです。)

 詠うに合わせて琵琶を掻き鳴らす。その声はこの世のものとは思えない響きをもって博雅の身を包んだ。一人の人間が発する声、奏でる音とは思えない迫力がある。同時に、今にも消えてなくなってしまいそうな儚さがある。音に包まれて庵そのものが異界とつながるような不思議な感覚と感動に、博雅は涙を流していた。
 やがて、音が止み、蝉丸の静かな声が朗々と響いた。
「何とも趣深い夜ではないか。この世には、わたしの琵琶の本当の音色を分かる人がいるはずだ。管弦の道を知る人が訪ねてくればよいのに。琵琶について、語り尽くしたいものだ」
 ささやき声なのに、博雅には一音一語はっきりと聞こえた。まるで、そこに博雅がいるのを知っていて、博雅に向けて発しているかのような、不思議な声である。
「京に住まう博雅がここに来ておる」
 いつの間にか博雅は庵の庭に立ち、名乗り出ていた。
「京にて源脩に琵琶を学んだ者。ようやく、あなたの琵琶を聞くことができた」
 そうして庵に上がり、琵琶について、雅楽について語り合った後、
「『流泉』、『啄木』を聞かせてくれまいか」
と頼んだ。
「亡き式部卿宮はこのようにお弾きなされました」
と言って、蝉丸はそれらの曲を伝えた。博雅は琵琶を持参していなかったので全身全霊をもってその旋律を、拍節を習った。すべてを口伝したときには、庵の外も白み始め鳥のさえずりがあちらこちらで聞こえていた。
 博雅は蝉丸に礼を告げ、草庵を辞した。心地よい疲労感が帰路の足取りを軽くしていた。

原文はこちら 巻24第23話 源博雅朝臣行会坂盲許語 第廿三
原文に忠実な現代語訳はこちら 
【参考文献】
新編日本古典文学全集『今昔物語集 ③』(小学館)

 ちょこと後付

 博雅が三年前にお願いしたときに「京に住めばええやん?」と言わずに「本気で琵琶を習いたいんです」と言えば、その時に教えてくれたのではないでしょうか。原文でも「京の源博雅でござる」と名乗った時に、蝉丸から「って、誰?」と返されているくだりからも、ちゃんとお願いできていなかったことが伺えます。藤原実資からは「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠けだい白物しれものなり」と評されていることからも、ちょっと非常識なところがある人だったのかも知れません。ちなみに、「しれもの」は常軌を逸した愚か者、乱暴者のことです。
 さて、琵琶法師ですが、 盲目の方が琵琶法師になったと言われます。これは、盲目故に耳をもって異界のものの声を聞くことができ、異界のものの声を代弁したのが琵琶法師であったからです。平家物語は、源平の争いで亡くなった祖先への壮大な鎮魂歌であったそうです。
 現代小説訳では、そのような異界と通ずる琵琶の奏でを表現してみました。