ピローマン〜残る物語と消される命
昨日、新国立劇場で「ピローマン」を観劇しました。
客席に入ってまず目につくのが、舞台を中心に客席を取り囲む構造です。新国立劇場小劇場はサイドの席もあるので、ほぼ360度ぐるりと囲む形になっています。
私は上手にミハエルの部屋、下手にカトゥリアンの部屋の配置で観ました。大型家具はないので、どこで観てもそこまで差は出なさそうでした。ミハエルの部屋側のサイド席だと、部屋の中見えたりするのかな?
開幕直前にトリガーアラートについて話題になりましたが、視覚的にも聴覚的にも強めに出てきます。私は後方席だったこと、また突然驚かせるのは苦手ですが、モノ本体は見れるので、そこまでしんどくはなかったです。「ジョーカー」見れる人はたぶん大丈夫。でもさすがにラストは意図的に別の方向見てましたし、逸らしてよかった。出てくるものがかなりリアルで、逆に衣装さん・美術さんの力量とお手入れが大変そうとも感じました。
作品の上演実績があり、今回の戯曲も出ているため、ネタバレしても問題ないと考えています。ただ新鮮な目で観るに越したことはないので、未見の方はご了承ください。
まず1番に驚いたのが、前半と後半の雰囲気の差でした。前半はトリガーアラートで警告されたものが、フルコースで登場。100分で3人も殺害の瞬間を目させられたの、初めてな気がする。唯一、ミハイルとカトゥリアンの他愛もない会話だけが癒しでした。
劇中、カトゥリアンが創った物語が何度か語られます。劇場構造により、観客も物語を体験させられている感覚になります。彼が創る物語は、子どもが悲惨な目に遭う話ばかり。私は東日本大震災時の「津波ごっこ」のような、自己治療と思いました。
過去の自分を癒してあげながら、創り上げた物語の数々。その物語だけが、彼自身の存在意義を見出たのでしょう。カトゥリアンは自分の命より物語が残すことに固執しました。物語は誰かの手に渡らなければ残せない。彼自身がたくさんの物語に触れてきたからこそ、自分が生きてきた証拠は、誰かが引き継がなくてはいけない。
ただ一方で、彼の自叙伝的な物語だけは、自身の手で葬りました。その意図は劇中では示されてませんが、私は「カトゥリアンは自分自身が嫌いだったから」と思います。彼は創作の才能しか自分にはないと言っています。また私は、カトゥリアン自身も両親の実験の対象者だったのではと思います。そんな親の息子且つ実験対象であり、創作以外に秀でたものがない自分という存在は嫌いだったのではと思います。
だからこそ自分色の強い作品だけは葬った。あれがなければ、自分の罪も兄と両親の存在も共に葬れる。純粋にカトゥリアンの名と物語だけが生き続けられると。
カトゥリアンを演じた成河さんは、まさに「物語を語る」にふさわしい。一瞬で観客を創作の世界に惹きつけます。ミハエルの木村さんは、ゆるっとしたニットが似合う、柔らかさと無邪気さを兼ね備えたお兄さん。彼から出る言葉は本心なのか、それとも障害によるものなのか、何とも言えないのが、この作品の怖いところ。なぜあの3作を選んで行為に及んだのか、なぜ1作嘘をついたのか、ミハエルにしか分かりません…
後半は斉藤さんのトゥポルスキ、松田さんのアリエル、そしてカトゥリアンによる大論戦。前半で「パワー型のアリエルと頭脳型のトゥポルスキ」の印象付けられた2人が、後半で一転。アリエルの攻撃性は小さい頃の体験、またトゥポルスキはクズな一面を見せます。この辺りは作者マクドナーの、弱さと強さを兼ね備える人間への愛情を感じます。
アリエルが女の子に手話をしてましたが、彼の子がそうなのかなぁと思ったり…動きがなめらかだったので
カトゥリアンは撃たれ、アリエルが物語を引き継ぐ、ビターな結末。でもそれすらも童話の世界のお話であるように感じられ、寓話のようでした。全体主義に対するアイロニーのようにも感じられました。
緻密に積み上げられた脚本に筋の通った演出、それらを落とし込んだ上で最後まで観客を惹き付けた役者たちによる、非常に質の高い舞台でした。さすが新国立劇場主催公演です。
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