誰の金で食えてると思ってるんだと脅されて【「ライター」を始めてみたけども…②】

ライターの仕事について思うこと、もやもやがたまってきたから、ちょっとここに書き出させてもらってもいいですか?

先日、もやもやする出来事がありまして…。いや、前からずっとたびたび思っていたことなのだけど、ひさしぶりにそういう出来事にやりとりを通じて直面したから、ひさしぶりにうわっとなって。

ライターだから、って、書けりゃーなんでもいい、って、仕事を依頼される相手に思われてしまうことが、わたしにとって、とても悲しいことなんだな、と感じたということです。

具体的なやりとりとしては、「こういう記事を書いてほしい」というオウンドメディア全体のイメージを示しながら説明をしてくださった依頼者にたいして、わたしは「その記事は、取材されたりとかして書いてるんですか?」ということを丁重に質問したわけです。

別にそんな、イレギュラーな突飛な質問だとかではなく、普通、書き手として当然確認しておきたいだろうな、というような内容だと認識していました。

ですが、その方からは、取材?????という反応をされたことが、とても悲しかったです。わたしのような取材して記事を書いてきたバックグラウンドのある人間を必要として呼び出してきたにもかかわらず。

ただ、そんな自分の悲しさを相手に表明してもしょうがないので、内心はがっかりしながら、会話の流れとして、「もしくは専門家に寄稿をお願いしてるんですか?」「出典とか、なにをベースに通常書かれているんですか?」とか、自分が書くことを任される以上は、なにをベースにそこではやってるのかくらい、自分のメディアなんだし、説明できないわけはないと思って、続けて質問を変えて聞いたんです。

だけど、ん?専門家?????、出典????みたいな反応されて。

これまで書かせていただいた媒体では、バックグラウンドが似ていた方が多かったからなのか、そんなところで、ん????取材????なんですか?それ?みたいな反応をされることなんてなかった。

当然、こういうことをライターは質問したいだろうなということは、1を言ったら10はきちんと説明してもらえたし、聞きたい意図が十二分に伝わって、二十分くらいにしてさらにわかりやすく答えてくれる人たちばかりだった。自分たちのメディアのことだから、説明できて当たり前だし。

だけど今回は、いろは以前のレベルの話も同じ質問内容を何度も聞き方を変えて、なぜか自分から聞き出さなければいけないうえに、とんちんかんな反応に、どっと疲れた。

別のとある業界のメディアもそうだったけど、「わわわれはメディアだ」と日々豪語しておきながら、「ライター」になにもかもを依存して、丸投げして、メディアのことなんてなにもわかっていない人たちばかりだった。

向こうとしては、全部お前の好きなようにやれる、そういう場がほしかったんだろ?用意してやったぞ、という気でいるのだけど。

売上が落ちると、ライターの記事がだめなせいで、広告や営業の自分は悪くないとすべて人のせい。なんでもライターのせいにされる、ライターってそんな存在なんだと知った。

企業とのタイアップ記事で広告をとりたいにしても、その記事の企画の発想はいくらなんでも無理があるから勘弁してほしいと言うと、「誰の金で食えてると思ってるんだ」と脅されたりは日常茶飯事。

自分はマスメディアという世界にいたからわからなかったけど、世間一般でいうライターって、そんな立ち位置なんだなあ、って知った。むしろマスメディアが、なかなかに特殊な世界だったんだなと、見え方もだいぶ変わった。

そういう場所において、「取材」というプロセスが、こんなにも軽んじられて、理解もしてもらえない、リスペクトしてもらえない、ということが、わたしはすごくすごく悲しくて、がっかりしたなあ…ということを、思い出したのです。

それに似たような経験を、今回して、ああ、そういうことなのかと、再体験して、諦めのような理解を感じたのです。

ライター?ああ、なんでも書く人でしょ?書くの好きなんでしょ?自分たちの都合のいいように、それなりの見栄えいいもの作ってくれるんでしょ、みたいな。自分たちを華々しく着飾ってくれるために、あればいい、自分のアクセサリー、みたいな。

もちろん、ボランティアではなくて、事業なのだから、それは間違ってはいないけど、その無理解は、これまでのライターたちの人生や価値までを否定する、失礼なものにほかならない。

ものすごい専門知識や情報収集に裏打ちされて、「取材」というスキル、手法を用いて、緻密な構成によって料理された記事という成果物も、ただ、このキーワードという味の素をまぶしてくれといわれて、大学生のレポートのコピペしたレベルのものを、それなりに記事っぽくリライトして格好だけととのえて、そこにありゃいい、みたいな、幕の内弁当の柴漬けのようなレベルでも、どちらをやったって、ライターの仕事なのです。

それに至るまでに身につけた膨大な知識や、取材というテクニックや、どれだけの人生の時間や労力を費やして身につけたスキルがあろうがなかろうが、時間や交通費や経費もろもろいかにコストダウンして、早く、安くできれば、同じ幕の内弁当として、積み上げられて、ただ販売されて、消費されて、ぽいって捨てられていくだけのものなのです。

どんな仕事だって、料理人だって、玉石混交なのは当たり前なのだけど、わたしにとって、「取材」というスキルをないがしろにされることは、とても悲しいことなんだな、ダメージくらうことなんだなということが、今回、そういう経験を繰り返して、客観視してわかりました。

いろんな自分の記者としてのスキルをトータルでわかってもらえたうえで、そうしてください、あなたのスキルのうちの、ここのパートを使いたいです、と言われるのなら、納得できます。

だけど、へ?取材??????という相手と仕事をして、そのときはよくても、長い目でみて、幸せな結果になったことが、これまでにありません。遠からぬ未来に必ず、その価値をないがしろにしていることによって、衝突が起こります。その瞬間が最後になります。

「誰の金で食えてると思ってるんだ」と言われた瞬間が、わたしにとっての決定打になったあの日みたいに。

その記事が、緻密な取材だったり、下調べだったり、インタビュー手法に基づいて作られた、記事なりインタビュー記事なりなのか、そうでないものなのか、同じ「ライター」だとしても、その味のちがいがわからない人に、幕の内弁当のひとマスにすぎないものとして、取り扱われたくないと、改めて思いました。それは、ずっと思ってきたことだけど、いま、あえて、そうやって、言葉にしてみました。

そんなふうなことを書きながら、そうやって軽んじられる経験をたびたび通して、自分は「取材」というものに、価値を置いているんだなと気づきました。

取材をしたいし、取材というものが、わたしは好きなんだな、とあらためて思いました。

インタビューも好きなのですが、緻密なところに、わたしはこだわっているんだと思いました。

フリーランスって、自分のスキルのなかの、どこかしらの工程がほしい人に、そのパーツを差し出して、その対価をいただくような仕事です。

だけど、スキルはあるけど、持っているスキルのなかでも、そのスキルを差し出すのは、乗り気じゃないこととかって、けっこうある。

もちろん、どんぴしゃに求めるスキルと差し出したいスキルがぴったり一致するなんて都合のいいことはないけれど、今回のこととか、まだうまく言葉にはできないのだけれど、対価を仮にいただいたとしても、差し出す気持ちが、素直にわいてこないんです。

素直にわいてこない、そんなかんじです。

わくわくもしないし。

できるとは思うし、なんならとてもいい環境での仕事だし自分にもすごく合っているなと思うのだけど、簡単に言ってしまうと、気持ちがよくないんです。

短期的にはなんとかなる、ってわかってはいるけれど、根底で、お互いの大切にしているものの価値が、ほんとうの意味で理解しあえていないものとの関係は、最後はとても悲しいものになってしまうなあと、これまでのことを思い出して、ふと、立ち止まったんです。


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