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「二十歳になった」という感覚

年末のららぽーとに行って、小夏ちゃんをドッグカレッジに預けて、どこもごったがえすなか、とりあえず入ったお肉屋さんで夫とお肉を焼きながら、ふと、思ったことがある。

それは、「あ、いま、なんか、やっと二十歳になったような心境だな」ということだった。

二十歳は、自分にとっての、「大人」だ。

年齢的には、20年前にとっくに成人しているのだけど、そういう意味ではなくて。

心のなかから、「あ、自分、ほんとうに心の底から納得して、『大人』になってもいいな」と思えたのである。

そんな感情が芽生えたのは、初めてのことだったので、わたしはそのとき、とても新鮮な気持ちになった。

新鮮な気分を覚えて、それで、ふと、そのときの気づきを、こうやって意識化することが、できたのだった。

「大人になるって、どんなこと?」という問いに、多くの人が、自問自答してきたことだと思う。

そのなかのひとつに、「自立」というキーワードがある。

まだ、わたしが「若い」といえる時期、結婚している同級生のほうが圧倒的に少なくて、自分も含めて大企業でバリバリ働いていた女子たちと女子会しながら、よく、将来のことをぼんやりと思い馳せるトークの段になると、よく出てくる言葉だった。

「結婚したとしても、あたしたち、やっぱり『自立』していたいよね〜」という、セリフ。

そのたびに、わたしは、みんな「自立」「自立」って、わかったように言って、いったい、なんなんだろうと、彼女たちが遠くにいるような気持ちになるのだった。

それは、当時、結婚を前提に十数年間、付き合っていた人から、ことあるごとに「自立」という言葉を持ち出されていたことからきているのだと、わたしはすでにわかってはいた。

その人とはそれから数年後、憎しみあいながら別れることになったのだけれど、いつになったら結婚してくれるのかとことあるごとに聞くたびに、いつもわたしは「お前はもっと『自立』しなくちゃ、おれに見合う結婚相手になんて、なれないぞ」と、だめだしをされ続けてきていた。

自分なりには、その人との関係も公にできず、自分のなかだけで抱え込みながら、相当ひとりでたくましく生きていたつもりだった。

身寄りがないなりに、自力ですべて調べて解決しようとしたり、それでも無理なことは頭を下げて頼み込んで、その代償として辛酸を舐めたりしたりして、同年代に比べても、そのへんは自分で言うのもなんだけど、問題解決能力やサバイバル能力は、おかげで相当高くなっていった。

そんなふうに、わたしは、彼に見合う「自立した女」になるように、誰にも頼らなくてもいいくらい、とてもたくましくなっていった。

一方、それでも彼は、わたしに「まだ自立が足りない、足りない」と言って、「もっとあれをしなきゃだめだ」「自分の苦労に比べたらまだまだだ」などと、すり減るわたしに、さらにムチを打って、わたしはすり減りながらも彼のためにただ走り続けるしかなかったのだった。

そのときの自分は、まるで目の前につねに人参をぶら下げて走り続ける馬のような気分だった。

自分で自分のことを、そんな言葉があるのかわからないけれど「『馬人参』状態だ」と、ひとりで思っていた。

どこまで、目の前に人参をぶら下げられて、走り続けなきゃいけないのかわからない。まったく先が見えない。

だけど、これまでの人生は、そうやって、裏切り続けられながら、誤魔化されているとわかっていながらも、そうやって、走り続けさせられているのが自分のデフォルトだったから、それを受け入れるしかなかった。

わたしは幼い頃から、大人というのは、子どもにだまして、人参をぶらさげて、走らせる、そういう嘘つきなんだと、ずっと思っていた。

だから、先述の、同世代の女子会の女子トークで出てくる「結婚しても、いつまでも自立していたいよね〜」という文脈で出てくる「自立」という言葉が、すごく薄っぺらくて、その言葉の以上も以下も考えていないかんじが、もやもや、いらいらとした。

そんな「自立」って簡単に考えちゃっていいの?って、内心びっくりもしてしまったし、だけど、それを彼女たちに、簡単に問題提起したり、つっかかったりすることもできない。

どうすることもできない自分に、もやもや、いらいらしたし、疎遠になって、孤独になっていったのだった。

福祉関係の人などはよく、「自立とは依存先を増やすこと」ということを言う。

そのセリフを聞くたびに、それもまた、もやもやとしてしまった。

そう簡単に他人に言えてしまう人たちに、やはりわたしは怖くなって、何度も距離を置いてしまったか、わからない。

「自立」だけでなく、「依存」という言葉を、そんな簡単に言っちゃえることに、もやもやした。

いまだって、「依存」か「依存でないか」の境目など、わたしはわからない。

「これは依存か」「そうでないか」とずっと自問自答しながら、ひとつひとつ慎重に考えながら、おそるおそる、あらゆるモノゴトとかかわっているような気がする。

こたえなんて、わからない。

だけど、たぶん、わたしは、これからも、「自立とは」と誰かになにかを校長先生みたく、語ることは、少なくともないだろうなと、それだけは確かだろう。

「自立とはこうである」と、はっきりさせて、誰かに伝えることに、なんの意味があるのか、わからない。

わからないけれど、きょう、そうやって、年末のごったがえすららぽーとのお肉屋さんで、「やっと二十歳になったような気分だ」とふと、感じることは、ある。

というか、きょう、あったのだった。

自分のことがどうでもよくなって、小夏ちゃんのことだったり、家庭のためだったり、世のため人のためにだけ尽くしたいと思うようになったということではない。

自分のことも、これからもどうでもよくない。

「ねえ、自分ばっかりお肉食べすぎてる気がするんだけど大丈夫かな?」とわたしが聞くと、「大丈夫、自分はちゃんと枚数数えて、その数分食べてるから」と夫。

ふっ、と、誰から支えられているのではなく、自分がまるで浮かんでいるような、これはもうスピリチュアルな感覚なのだけど、「I feel free 」みたいな、「ふっ」というかんじ。

そのかんじは、ほんの一瞬だったかもしれないけど、その瞬間、あらゆる執着だったりがどうでもよくなって、「なんでもいいな」となんでも受け入れられるこのかんじ、それをわたしは「二十歳」になったと思ったのだった。


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