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「あっぱれ」な彼は”戦う”ことを知らずおろおろとした

先日、知人から、職場でトラブルに巻き込まれてしまった、弁護士を紹介してくれ、というような連絡がきた。

もちろん、トラブルの内容はいっさいいえないけど、彼とやりとりをしていて、これまでの彼のイメージとはちがった一面を、なんだかんだでもう15年くらいの付き合いにはなるけれど、初めて見たのだった。

彼といえば、自分の質問したいことだけを人に聞いて、相手がそれに答えると、「えー、ところでー」と真顔で話題を変えて次の質問に矢継ぎ早に移っていったり、全部聞きたいことを聞ききって、その人に用がなくなると、自分から呼び出しておいたにもかかわらず、「じゃ」っと、そそくさと席を立って去る。

彼をまともに相手した人は、みんなそろって、きょとん、とした反応をする。

出会った15年ほど前は、まだそうした度合いがまろやかではあったから、そこまで顕著に目立たないというか、周りもみんな用件さえ正確に伝わればいいという忙しい世界にいたこともあって、うまく隠せる環境にいたと思う。

彼はわたしよりも、年上なのだけど、だけど、ここ数年で、その彼の「悪い」(といってしまっていいのか語弊があるかもしれないけれど)傾向が、誰もに起こる加齢の影響なのか、顕著に、頑固になってきた。

しかも、いまは、固定した上下関係というよりかは、フラットにコミュニケーションする文化が進んでいることもあって、彼のそれは明らかに悪目立ちしている。

だけど彼は彼なわけであって、変わっていないので、わたしとかほかの人から見れば、ああ、悪目立ちしているなあと思っても、彼は自分が変わっているなんて、思ってもいないから、ますます世界とかみ合わなくなってきている。

自分の背中は自分で見れないって、自分も含めてだけど、悲しいよね。

前置きは長くなってしまって、まあそんな彼なわけだけれど、だけど、わたしは、そんな彼のことを、いつも「あっぱれ」と思って、感心してしまう。

なぜなら、自分がもし彼だったら、とてもできることではないからである。

わたしは相手の反応だけではなくて、相手やその場から伝わる空気の微細なゆらぎすら気になって、自分の体調にすぐさま影響されてしまうタイプだし、たとえばひとつの組織やチームや職場で、ひとりでもつらい思いをしていたり、イライラしている人がいると、それをもらってしまって、なんだか自分が悪い気持ちになって責めてしまい、別に誰からも頼まれてもいないのに、その責任やつらさやイライラまでをも、引き受けてしまう。

いつも、ごめんなさい、ごめんなさい、と言っている、そんなタイプだからだ。

だけど彼は、わたしと真逆で、相手だったりその場の顔色や空気が、まったく見えなくて、意に介すことがない。だから「あっぱれ」。

とはいえ、わたしは彼に、何度腹を立てて、あやめてしまいたいとすら思ったこともあったかわからない。

たとえば、仕事で彼の保身のために、わたしの情報が彼の職場の上司にいいように売り飛ばされて、あらぬ誤解を受けるという、誰から見てもひどい被害を被ったときとかあった。いまでも忘れない。

だけど、そういう「あっぱれ」な彼のことを考えると、怒っても仕方がない、という、ひゅるひゅると力が抜けたような、しょうがない気持ちになるのだった。

基本、まともに接したり話したりして伝わる人とは、そもそもこんな行き違いになることはない。そういうことが起きてしまうということは、そういうことなんだろうなと思うのだ。

彼がどんな人かということを書いたらキリがないので、この程度にするが、そんなふうに、わたしにとって、なにもかもに動じない、影響されない、その彼が、冒頭のはなしに戻るが、職場でトラブルに巻き込まれ、身分が脅かされることなどに、おたおたしているのである。

「あっぱれ」な彼の、見たことのない光景だった。そんなにも「あっぱれ」なのに、たかだか、自分の身分を失うことに、保身に、おたおたしているのだ。それ以外、別に死にゃーしないとわたしは思うのだけど(そこまでいくと、ぶっとんでるのかな)。

そんな彼とやりとりをしながら、思ったことがある、ということをきょうはただ、ここに書きたいんだった。

それは、彼は、戦い方をまったくしらない、ということだった。まったく、戦う、ということを学んでこなかったということだった。

いや、わたしが戦い方が立派にできるとか、強いとか、そういうことではない。年をとれば、対処するトラブルの数も増えて、人並みに経験値が増してくるくらいの話だと思っている。

「あっぱれ」な彼は、空気が読めなさすぎて、そういうことにも無敵だと、個人的には思っていた。

だけど、そんな彼が、生まれて初めて(は言い過ぎかもしれないけれど)唯一、おろおろしているのである。

こんなことで(いや、当人にとっては進退もかかわったりするから大変なんだろうけど、この手のトラブルはどこにでもあって、彼なら職業柄、そんな事例に接する経験は、ほかの職業よりもごまんとあっただろうから)、冷静さを失って、どうしよう、どうしよう、と思うのではなく、そういうことになってしまったのはアンラッキーだけど、ただ対処するのみと、わたしだったら思う。

対処さえすれば、なんとかなる。てか、対処するか、しないか、でしかない。

わたしは、彼のことを、きっと「あっぱれ」と諦めきることで、それ以上、無駄な戦いを彼とする道を選ばずに、ここまで腐れ縁できてしまったわけだけど、今回、おろおろする彼の姿を見て、誰とも戦うことなく生きてきた人なんだなあということをしった。

ちなみに、戦い方を知らない、というのは、戦うことによって、自分は仮になにかを失ったとしてもなにを得たいのか、どこに着地したいのか、相手に何をしてほしいのか、ということが、はっきり自分でわかっていないことだとわたしは、彼とやりとりしながら思った。

人によってなにを得たいかの優先順位はそれぞれだから、委ねられた専門家もどういう方向でやればいいか、困ってしまうし。

だけど彼は、職業柄なのか、行政機関や専門家に相談に行って、なんなら士業の方への相談も役所の窓口かなにかだと思って、自分の相談を”取材”するだけで、”取材”した自分に、満足して帰ってきた。

そして、ケンカの武勇伝をいつまでもお母さんに繰り返し話す、小学生みたいになってしまった。

それ、現実、なにも変わってないんじゃん、ってわたしは思う。

なにを得たいの?自分のプライドを満たしたいのならば、それを言葉にすればいいだけなのに。その言葉が言えなくて、それを欲しがる自分を認めたくないからなのか、結論を出さずにいようとする。

現実はもう、「おれは堕落したのか?」ってわたしなんかに言ってるフェーズじゃないだろうに。

そういううじうじした姿勢には、ついつい手出しをしたくなってしまい、いつもいらいらさせられる。

でも満足しているのに、おたおたしている。

だけど彼は、自分からしか、自分の言いたいことを言わないから、わたしの声は、なにひとつ響かない。

言いたいことは、それだけ。

「あっぱれ」と思えて無敵に見える人も、戦い方を知らなくて、おたおたするんだなあということを知ったという話でした。

昨日も文章がだいぶ長くなってしまって、きょうこそは、長くても1500字くらいで10分くらいでささっと書いてみたいなあと思ったのだけど、そのノリでやろうとしても3500字超になってしまってしまった。

これじゃあ、読みづらいよなあと思います。もし奇跡的にも読んでくださっている方がいらっしゃったら、こんなおもしろくもない、役にも立たない、読みづらいものに目を触れてくださいまして、ありがとうございます。

ほんとは、いつもいつもなんですけど、こんなじめっとした、暗い話ではなくて、明るい、たとえばお弁当箱にたとえるとしたら、おいしいお弁当を、わたしは作りたいといつもいつも思います。

みんな人気な甘い卵焼きとか、シャウエッセンとか入れてパリッとさせたりとかして。

次こそはといつも思いますが、やはり、できるものは、こんにゃくを醤油で煮たような色の悪いお弁当のような文章です。なんでだろーって思いますけど。

だけど、いいわけかもしれないですけど、上に書いたように、1500字くらいで思いついたときにぱぱっと、おいしい最高のお弁当をいつも作ってやろうというのではなくて、その時々にできたものを、ただ、その場に置いておく、みたいな試みを、させていただこうかなあと、当面の方針として思ってます。

もし、こんなこんにゃくを醤油で煮たようななものや煮物や筑前煮みたいな彩り悪い茶弁のなかでも、あなたにとっておいしいおかずが、一品でもあれば、どうぞおいしくお召し上がりくださいませ♡

これからもよろしくお願いいたします。


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