村上春樹「一人称単数」の話

村上春樹の短編小説集「一人称単数」を読んだのでその感想を書く。全体の大まかな要旨のみ書き、各短編についての詳細は伏せるのでネタバレにはならないと思う。

さて、はじめに断っておきたいのは僕は村上春樹の熱心な読者である。幾つかのエッセイを除いて彼の殆どの小説を読んでいる。また、そのうちの幾つかは何度も何度も繰り返し読んでいる。なので多分"熱心な"読者といって差し支えないと思う。であるから、僕は彼の小説について、"小説単体として"読むことが出来なくなっている。つまり彼の新しい小説を読んでもどうしても彼の過去の作品や彼自身のバックグラウンドを意識してしまうのだ。これはある意味では不幸なことかもしれない。作品単体としてそれを新鮮な気持ちで受け止められないからだ。そう言うわけで本書についてもそのような態度で読まざるを得なかった。

前置きが長くなった。本書の感想を書こう。

まず感じたのは本書が完全に"若者向け"に書かれているということだ。(単に僕が歳をとったからかもしれないが、そうとも言い切れない。)僕がそう感じた理由は二つある。

一つは本書のほぼ全ての短編が"彼の過去の思い出"という形式で書かれているからだ。つまり彼の昔話集だ。これはおそらくそういった形式を取らないと現代の若者に届かないからだろう。(彼が現代のありようを書くことが出来なかったという理由もあるかもしれない。)

二つ目はどの短編も彼の過去の作品と比較して比類なく分かりやすいからだ。分かりやすいとはどういうことか。どの短編にも伝えたいメッセージがくっきりと記されている。これは"短編だから"では済まされない。彼の過去の作品はどれも読者に問いを投げかけるものか、あるいは読者自身に問いを設定させるというある意味で受け止める側に委ねられることの多い、度量の大きいものだった。しかしながら、本作品に収められている短編はどれも答えが用意されているように感じた。あるいはそのヒントが多分に含まれているように感じた。その意味では本書は非常に読みやすいといえる。

従って、本書は彼の"若者に何かを分かりやすく伝えたい、残したい”という思いが強く感じられるものだった。

ここからは何故彼がこのような形式でこのような短編を書くに至ったのかについての考察を書く。考察といっても大仰なものではない。僕の単なる邪推に過ぎない。

まず思いつくのは彼の年齢的な問題だろう。今調べたら彼は71歳になるという。現代日本においてはまだまだ若いだろうし、彼の健康に気を付けるスタイルでは十分これからのキャリアの長いだろう。しかし、一方であらかた"書き尽くした"という見方も出来るかもしれない。本書での彼の考え方、スタイルの根底にあるものは過去作とさほど変わらない。であるから、それを若者に分かりやすい形で伝えたかったのかもしれない。少なくとも彼の過去作を読むより、本書を読んだ方が直截的に彼の考え方やスタイル、また文章に対する態度がはっきりと分かるだろう。

長くなってきたのでそろそろ締めたい。

本書は若者、もしくは初めて彼の著を読む人が村上春樹入門として読むのに適している。もし気に入ったなら彼の過去作を読んで欲しい。

そして、僕個人の気持ちとしては彼の次なる長編小説が読みたい。前長編作「騎士団長殺し」が彼の小説家としてのキャリアの総括的なものであったので(勿論非常に素晴らしかったが)、次回作はその枠を取っ払うような新境地が見たい。おそらく彼にはそれが可能だと信じているから。



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