見出し画像

横浜中華街にいた「15歳」の私。

パシフィコ横浜のアートフェア を見た後、16歳の娘と横浜中華街へ向かった。ムウッとする暑さの中、中華街はすごい人出で、私たちは泳ぐように人混みを歩いた。元町から中華街の入口が見えてきたときに、不意に懐かしさが込み上げる。

14〜15歳の頃、山手に祖母と住んでいた。部活の帰りに中華街へ友達と出かけ、大きな肉まん(当時200円)を買い食いした。その肉まんがとても美味しかったという話をしていたら、娘も食べたいと言い出した。


中華街は、40年前と比べ、赤と金の提灯と看板で煌びやかな街となっていた。小籠包の食べ放題や占い屋が至るところにあり、中国人らしき店員が盛んに呼び込みをしていた。
日本では占い屋といえば悩みを相談する場所だ。奥まった場所にひっそりとあるものだと思っていたので、積極的に客引きをする中国人を、観光者のような珍しい気持ちで眺めていた。

中華街で「飲茶」とはフードコートのことらしい。店頭で小籠包や肉まんが売られ、テイクアウトで購入したいお客の列ができていた。
私と娘は大きな肉まんを2つ買い、近所のベンチに座って食べた。40年前と変わらない。特に周りの皮がもっちりとしてうまい。そうそう、この味、と私は感動した。この味を求めて、学校からここまでよく来たものだ。

山手に住んでいた中学生から高校生の2年間、思い出の場所がいくつかある。中華街の他、元町、山下町、根岸公園だ。
地元にいた友人には、これらの場所は身近過ぎて、興味を感じなかったようだったので、友達を誘って出かけることはあまりなかった。しかし、異国情緒のある建造物やお洒落で賑やかな雰囲気を持つ横浜の街や、青い空と緑の芝生の広がる根岸公園は、鬱積した感情を解放してくれる場所だったので、よく一人で出掛けた。

商店街の店頭には毎回、新しいものが上がっている。今の時代がどのように回っているのか、社会に参加するにはどうすればいいか、上下しやすい自分の感情を鎮めるには、これから生き抜いていくには、そんなことを考えて煮詰まるとき、街のショーウインドウは私に「きっと楽しいよ」と言い、公園の自然は私に「なんとかなるさ」と言ってくれる。

同世代の子と話すとき、将来のシリアスな話題になることはほとんどなかった。皆クラスの男の子の話題でワクワクしていた。もちろん私も共感しないわけではなかったのだけど、皆でする話ではないと思っていたので、グループの談話は窮屈以外の何ものでもなかった。

山下公園も特に好きな場所だった。横浜港の海岸沿いに伸びる歩道や芝生には家族連れやカップルで溢れていた。氷川丸の向こうに見える海は外国へ繋がっている。今私のいる世界が全てではない。いつかこの海の向こうの世界を見たい、と切実に思っていた。

この頃から、「今を生きる」ことを、忘れていったのかもしれない。
今の生活が楽しくなくて、将来楽しくしたいから、今は頑張ろうを繰り返してきた。

あの時、どのように生きれば幸せだったのかな、と思う。
いやだな、と思っていたこと。トレンドの話題についていけなかった代わりに、周りと差をつけようと思っていた勉強やスポーツ。(そんなに差をつけていたわけではないが)勝ってもとりわけ嬉しいというよりは、生き延びた、という気持ちだった。

社会でちゃんと扱われたくて、誰かが決めた評価基準を満たそうとして、頑張っていた当時の私が、本当に好きだったことは、漫画を描いて、自分の気持ちを表現することだった。でもそれをすると「変わり者」扱いの対象者にしかならなかった。当時の疎外感は、深く私を傷つけた。

あの時の私に必要だったのは、そんな他人の無理解など気にせずに、表現したがっている自分に優しくすることだった。表現することを骨の髄まで楽しむことだった。でも当時の私には、そんな私を受け止めてくれる人もなく、社会の掟に呑まれるように自分を変えざるを得なかった。

「一般的」という言葉が嫌いだ。何か選択に迷ったとき、「一般的」という言葉に導かれて選択する人は多いけど、一般的な価値基準で人や物事をジャッジする人を見ると、私を否定されそうで防衛的になる。15歳の頃に否定された自分が、いまだに悲鳴を上げているからだろう。その声を聞くのが嫌で、「一般」を主張する人を遠ざけていた。

でも実際、「一般」的な人たちは、そうでない人を嫌っているわけでもなく、蔑んでいるわけでもない。一般枠にいるのが安心なだけで、そうでない生き方をする人たちに興味を持ち、彼らを知ろうとしているのだ。

本当は「一般的な人」なんていないのかもしれない。誰もが、ある時期に「死んだ自分」を悼んでいて、その自分を生き返らせ幸せにするために、何かを探しているのだろう。だから他人に興味を持ち、コミュニケーションをし、相手を知ろうとするのだ。

私を殺した人たちと向き合い、手を差し伸べる勇気を持てるだろうか。それは痛みや恐怖を伴い、失望をもたらすけど、思春期からずっと続いている悲しみに決着をつけるような気もする。

ここまで書いてから、このエッセイをどこかで盗み見する家族を想像した。母は、私のネガティブな面を見ると、必ず弟と比較し、私に「あなたはこうだ」というラベルを貼る。本人は悪気があってそうしているのではなく、そうやってラベルを貼ることで安心したいのだろうけど、ラベルを貼られた方は劣等感がさらに強化されてしまう。

本当に愛を持った人というのはなかなかいない。だって愛は学ぶものだから。そして、それを伝えたり受け取ったりするために、技術や修練が必要だからだ。

ただ、私に希望が持てるのは、これまで自分を克服するために、様々な経験を重ねてきたからだ。その時々に必要だった人たちと向き合って、うまくいかなかったこともあったけど、出会いと別れを繰り返すうちに、ネガティブもポジティブも併せ持った自分自身をまるごと受け止められるようになったと思う。そして自分に向けれられた言葉に愛があるのかということも、見分けられるようになった。

人と出会って向き合い、感動の経験を積む。これこそが人生の蓄財だと思う。老後の資金が足らずに不安になっている人は多いけど、私よりも貯蓄が少ない人、それでも幸せに生きている人はたくさんいるだろう。

老いて、無一文で死んだとしても、私は自分を「幸せだった」と思うだろうな。だって私は、一緒にいたい人といられたから。楽しい時間を過ごせたから。その充実感を、きっと死ぬまで忘れない。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?