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『火車』宮部みゆき著、新潮文庫

『火車』は、私がはじめて読んだ宮部ワールドだった。いつだったかはっきりと覚えていないのだが、冬休みの前だったのは確実だ。私は滅多とない休みに、くつろいで読む本を探していた。あまり難しいものではなく楽しみたいと考えて、ミステリーか本格推理ものを探していた。年末に出される雑誌の「このミステリーがすごい」でベスト1にランキングされていたのが本書だった。

 まず、文章がいい。無駄なものがない鍛え抜かれた体を連想する。情景描写もさらりとしているのだが、うるさすぎず、少なすぎず、私は小説を楽しむのに必要なイメージを想像できていた。描写力が優れているからだ。次に、小説の勢いを感じる。話の展開が子気味よくどんどんと進んでいく。この物語は文庫本で700ページ弱という巨編であるが、そんなことを感じさせないで読ませるのは、ストーリーの運びが見事である証拠である。気がつくとどっぷりとその世界に取り込まれている。
 物語は、休職中の刑事、本間俊介がひょんなことから、失踪した女性を探すはめになる。語の進展とともにその女性の正体がだんだんとわかってくるのだが、なかなか全体像ははっきりしてこない。ヴェールの向こうにおぼろげに見えるだけなのだ。読者としては、本間達と同じように頭をひねりながら、想像の働かせるしかなくなる。

ここが見事なところだと思う。犯人(失踪した女)の姿が終始はっきりと描かれない。その女の部分が見えてくるのだけれど、簡単には全体を見せない。わかったと思えば、勘違いだとため息をつく。読み手とすればどんどんと首をつっこむしかできなくなる。その周りを丁寧に描いていって、犯人の姿がシルエットで描かれていく。はっきりとしてくると、その女は口裂け女のような化け物ではなく、ごく普通にこの社会で生活している人なのだ。ふとしたことで、誰もがこんな地獄にはまり込んでしまう。顔がはっきり見えないシルエットの犯人像はいつでも、読み手の顔が入ってしまう錯覚を感じる。私が「火車」を好きな理由は、まさにこの犯人の描き方にある。見事に想像力を刺激されてしまい、失踪している女性をいろいろと想像させてしまうのである。 

「火車」は、宮部みゆきが初めて直木賞の候補になった本である。選評では、評価が二分したと言われる。大絶賛する選者がいる中、「犯人の人間が描けていない」からと猛反対した人もいたという。最終的に直木賞を受賞には至らず、第108回の山本周五郎賞をのちに受賞している。それだけ、この物語がエッヂが効いていたと感じる。オレオレ詐欺や給付金詐欺などが頻繁に起こる現代にあり、改めてこの物語に描かれた中での人の怖さと、それが誰にでも起こりうることが、心身の芯から冷え込んでいる恐怖を感じる秀作と言える。


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