イントネーションが分からない現代人
先日友人とのやり取りで、ある単語の発音を確認するという件があった。
ネットスラングという平行世界で生まれる言葉のおかげで私たちが日ごろ新しく出会う言葉は圧倒的に増えたと思う。
新しく出来上がる言葉の発音は、いかにして定められるのだろう。
インターネットの普及により定着したテキスト文化においては、『言葉』は『音』を持たずに生まれることになる。
昔はそれでも会話があった。
会話の中で『言葉』は『音』を宿し、コミュニケーションに至る。
新しく生まれた単語も、会話において標準が定められ、正式な発音として認められる。
冒頭の”発音を確認するやり取り”は、その習慣すら失われた証拠である。
デバイスの進化により、私たちの生活はあらゆる面で便利になった。
しかし、引き換えにアナログな何かを奪われていることを認知しなくてはならない。
私が入ったある飲食店では、オーダーをタブレット端末で受ける仕組みだった。
一人で入店したので注文は機械。店員と言葉を交わしたのは会計の際のやり取りのみに留まった。
オーダーした定食が来るまで、私は一冊の本を読んでいた。
古川緑波「ロッパ食談 完全版」。
1951年、戦後間もない時代に連載されたエッセイは、これからの日本の未来を映すかのように、賑やかな料理で溢れていた。
訪れた店の女将との描写など、緑波の文章には色々な会話が登場する。
そのどれもが瑞々しく、登場する料理に華を添える。
あの頃、確かに会話があった。
オーダー通り届いた唐揚げ定食はとても美味しかったけれど、緑波の平らげた美食の数々には劣るな、と感じた。
喜劇役者として活躍した古川緑波には、数えきれない程の発音の機会があったことだろう。
『言葉』に『音』が宿ったからこそ、ゴキゲンな人生を歩んだはずだ。
たとえ技術が発達しても、奪われてはいけないものがある。
「ごちそうさまでした」
大きな声を残して、私は店を出たのであった。
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