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そもそも哲学的なテーマについて話し合うことは面白い


 なぜわたしたちは、「幸せとはなにか」「友だちの好きと恋人の好きはどのようにちがうのか」「なぜ校則は必要なのか」といった、哲学的なテーマについて話し合うことに惹かれるのでしょうか? 

 ちなみにここでいう「哲学的」とは、先日の記事のなかで少し触れているように、ただ調べるだけでみんなが納得できるような事実のことではなく、お互いに質問をし合いながら、きちんと検討をしなければわからないことを指します。

 これに対して、現在の社会が求めている他のひとと合理的に議論する力や、じぶん自身で自律的に考える力が育まれるといったことを、すでに多くのひとたちが口をそろえています。たしかにこれらの指摘はもっともですし、非常に賛同できます。

 一方で、本当にわたしたちはそのような力を養うことができるために、哲学的なテーマをみんなで話し合うことに魅了されているのかといま一度考えなおしてみると、どうも疑わしく思います。というのも、対話を通して思考力やコミュニケーション力が育まれるということは、あくまでも副産物にすぎない気がするからです。

 わたしたちが哲学的な対話に惹かれるのは、まずなによりも、そのような知的探求が面白いからだと思います。

 簡単には答えが出そうにないと直感的にはわかっていながらも、探求へと誘いかけ、おもわず考えにふけってしまうのが哲学のテーマです。それは、わたしたちの根源的な好奇心におおいに根ざしているのかもしれません。

 はじめに挙げたものにかぎらず、あらゆるテーマは哲学的なテーマへと変身する潜在性を秘めています。一見すると初歩的であり、まじめに論じるには値しないと思われるようなものであっても、じっくりと検討されることを通して磨かれていくように思います。もちろん、社会的な問題や道徳的な問題もこれらに含まれます。社会のあり方や世間のルールが理不尽に思え、納得できないようなことはしばしばあります。

 このようなテーマについて、他のひとはどのように考えているのか知りたいと思うものです。普段はもの静かでおとなしいようなひとが、対話の場において鋭く洞察力のある発言でまわりのひとを驚かせることはめずらしくありません。

 また、専門的な知識の有無に頼ることなく、誰もが一人の人間として自由に発言ができることも、哲学的なテーマについて話し合うことの面白さだと思います。「死んだらどうなるのか」という問いのもとでは、おとなと子どもは対等な立場で相対せざるを得ません。もちろん、性別や国籍、職業などもしかりです。

 もしかしたら、じぶんには縁遠いと考えていたあなたも、哲学的なテーマについて話したいのではないでしょうか?