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楽屋で、幕の内。|迎え火。 Aug.7

「私が空気を吸う限り、私の中で父は生き続けている」

毎年夏になると思い出す言葉。いくら多忙でも、お盆という風習のおかげで忘れずにいられる。盆入りの8月13日は、小さな手さげ提灯を持ってお寺の納骨堂を訪れ、ご先祖様をお迎えする「迎え火」を行う。幼い頃の私はピンク色をした花柄の手さげ提灯が可愛く思え、意味もわからず持ちたがった。お寺で火を入れた提灯を消さないよう、セミの声が鳴り響く田舎道をそろりそろり歩いて帰る。今思えば、ちょっとした遊びのように思っていた。

父が亡くなって今年で14年。迎え火の数日前に、60歳をとうに過ぎたと思えない元気な母と納骨堂に行った。「道が広うなって木が減ったとばってん、セミの声はよぉ響くねぇ。姿は見えんが、どこにおるんやろか」。たわいもない話をしながら、父が生前よく飲んでいたアサヒスーパードライと日本酒、落雁をお供えする。幼い頃はイベント枠に位置づけされていたお盆。10代になると遊びに出かけられない面倒な行事扱いをしていた。30代になり、やっと大切な習わしなのだと思えるようになった。

「亡くなった人は灰になり、塵になる。塵は私たちのまわりを漂い、吸う空気の一部となる。その空気を吸って生きているあなたの中にお父様がいる。目に見えないけれど、あなたと一体になり、生きている」

これは父の一周忌で聞いた、和尚さまの言葉(十数年前の記憶をつなぎ合わせて言葉にしているため、言い回しが若干違うかもしれない)。私は宗教に疎く、これが仏様の言葉なのか、和尚さま個人の言葉なのかは今もわからないが、この言葉を思い出すたび、目に涙が滲むと同時に、心に明かりがともるような穏やかな気持ちになれた。言霊と言われるように、言葉には良くも悪くも強い力があると思う。私はこの言葉に救われた。これからもたくさんの言葉に出会い、励まされ、助けられるだろう。そして私は多少なりとも文章を書くことを生業としているのだから、これからも素敵な言葉を紡いでいきたいと思う。今年の夏も、この思いを再確認することができてよかった。

トップの写真は母が育てた夏野菜。元々は父が育てていた。今年も猛暑の中、せっせと草むしりをする母の背中に「そげん草の取り方しよったら、すぐ生えてこようもん。どれ、鎌ば貸してんしゃい」と声をかけたそうな父の存在を感じた。

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