SFもどきのショートショート「殴るな!」

 「すいません、いいですか?」
 そう一応言ってみた時、対面して座っている彼の顔が、一瞬だが不快そうに歪んだようだった。
 もちろん、彼もおとなだった。さっと笑顔を取り戻して、
 「ああ、どうぞ。かまいませんよ」
 朗らかな口調で言葉を返してきた。
 さすがに、こちらがマナーを守って一応断りを入れるのに、「遠慮してほしい」などと仏頂面で返答する非常識な相手には、少なくとも私は出会ったことはない。もっとも最近はそういう輩も増えてきているのかもしれず、たまたま私だけがひとり幸運なのかもしれない。
 少し前なら、そもそも一瞬でも不快そうな顔を見せられることもなかったはずだ。どうして昨今はこうも、何かしら刺々しい視線やら表情やら、向けられるようになってしまったのか。
 私はテーブルの端から安っぽい紙皿を引き寄せ、とりあえず軽く左を出し始めた。空気をさくっさくっと切る感じが心地よく、気分が昂揚してくる。
 「それで、第二開発の野田君が言っていたんですけどね」軽い左ジャブで気持ちも軽くなり、仕事の話もスムーズに進む。頭の回転にも関係しているかもしれないというのはひきだおしというものか。
 ここで一発右といこう。
 私の右ストレートはきれいに流れて、相対していた山田主任の左頬までしっかり届いた。椅子にかけたままでも、腰のひねりと延び切る腕のシャープさがこの爽快さを産む。
 が、
「あうっ!」
 山田主任がいかにも苦痛という声を上げて顔をしかめ、のけぞってみせさえもしたので、さすがの私もちょっとムッとなった。いくらなんでもこのリアクションは大仰すぎないかというところだ。
 そこまでいやだったなら、最初に断固ことわればいいのだ。それならこちらもマナーを守って遠慮した。かまわないと言っておいてのこの態度は、失礼にもほどがあるのではないか。
 せっかくの気分も台無しになって、私は拳を拭いた紙ナプキンを、少し乱暴に紙皿に押し込むように入れた。私の不愉快さは当然山田主任にも感じられたろう。打ち始めたばかりの他撲を、私が唐突にやめてしまったのだから。
 「すいません、ちょっと体調を崩してるもんで、きつくって」
 そんな、理由にもならない言い訳を口の中でこねる。だから、それなら最初にどうして言わないのだろうか。
 おおむね……もちろん、嫌拳者の全員などと言うつもりはないが、どうも態度のはっきりさせられない旗色不鮮明な人物が多いような気がする。堂々としたところがなく、どこか卑小なのだ。
 気分のよくならないまま打ち合わせをかなり早く切り上げた。オフィスではかなり前から禁拳になっていて、外でコーヒーを飲みながらの打ち合わせ、ついでに一発というのを自分でも思いのほかの楽しみにしていたようだ。それが中断されて、なんとも索漠とした気分だった。
 「ほんと、すいませんでした」
 気まずそうに言った山田主任は、そそくさと姿を消した。
 本当に悪いと思っているのかどうか、わからないなと私は思った。今の世の中は、愛拳家には肩身が狭い。狭苦しくて息が詰まるほどだ。
 昔は、家の中はもちろん、オフィスでも、レストランでも、気軽に拳を唸らせることができた。建物外でも別になにも気にすることなく、好きな時に好きな場所ですることができた。
 バス停や駅のホームの待ち時間は手持ち無沙汰だ。そんなときの一発がどれほどストレス解消に役立っていることか。
 最近、意味のない暴力沙汰、簡単にキレて第三者に暴行を加えるなどが増えているのは、案外昨今のヒステリックな嫌拳運動が遠因ではないかと密かに私は考えているのだが、どうだろうか。
 他撲ほど気軽で安価なストレス解消法はない。健康によくない、手首などの打ち身捻挫はもちろん、悪くすると骨折もと脅す媒体は昔からあるが、そんなことはこちらは百も承知で殴っているのだ。他人を殴れないでイライラしたり、その埋め草に菓子パンなど四六時中囓ったりしてしまう方が、よほど健康によくないのではないか。
 こういうふうに言うと、必ず返ってくるのは、他撲をやって自分が骨折するのは勝手だが、他撲をしていない者を巻き込むなという論調である。
 骨折するのは勝手だがという言い方が、そもそも嫌拳者の自分だけよければいいというエゴイズム、狭量さを自ら露呈しているわけだが、それはあえて言うまい。我々愛拳家は、他撲でストレスを解消している分、おおよそ嫌拳家に比べて寛容だ。
 そんな寛容な私たちでも、嫌拳家の振りかざす「殴られない権利」にはいささか理不尽だなと不快を感じずにはいられない。
 「殴られない権利」が主張されていいなら、当然「殴る権利」もあるはずだが、それはどんどん削られていく一方なのだ。
 数年前、こんなせつない四コママンガを見かけたことがある。主人公は平凡なサラリーマンで、気のいい平均的日本人男性だ。
 その彼が他撲をやっていると、通りかかった無関係な男からいきなり怒鳴りつけられる。「歩きながら人を殴るなっ!」。突然ぶつけられた悪意に、彼はただびっくりするしかできない。
 家に帰ってくつろごうとしても、夫人が冷たく言い放つ。「子供が怪我をするでしょっ! 壁も傷むのよ!」
 主人公は独り、寒く暗い夜にひとけのない路地を探し、そこで寂しくシャドウ・ボクシングをしているというのが最後のコマだ。
 なぜ、そこまで嫌悪され、排斥されなければならないのか。
 私は、もちろん禁拳の場所で他撲をすることなどない。殴ったあと、手を拭いた拭き紙をポイ捨てもしない。殴るのは禁拳表示のない場所に限っている。
 そんな私にも、非難と軽蔑の視線・態度はよく向けられる。最近多いのは、さすがにいきなり怒鳴りつけられはしないが、歩きながら他撲をしているときだ。
 別に禁拳場所で野放図に腕を振り回しているわけではない。拭き紙をしまう携帯紙皿も用意して気を遣っているつもりだ。
 電車の中は当然として、駅のホームでも終日禁拳が多くなっている。だから、駅構内を出るまではちゃんと我慢している。愛拳家の中には我慢がきかず、禁拳表示の場所ですら拳を振るっている残念な姿を時折見かけるが、私は違う。
 それでも、嫌拳者にとっては、他撲をやっているというだけで、ひとしなみに人非人の認識なのかもしれない。

 オフィスに戻ると、部下の石丸がなんだかプリプリしながら荒々しい手つきでプロジェクターを整理していた。まだ若いが、仕事への情熱など、私はかなり高く評価している。直情の性格がしばしば他との衝突に繋がるが、軟弱な口だけ人間よりよっぽど好ましい。 「どうしたんだい、石丸くん。やけに荒っぽいじゃないか」
 そう努めて平凡に声をかけると、
「ああ、富山さん、おかえりなさい。ちょっとムカつくことがあったもんで」
 石丸はまだ学生っぽい口調で、思った通りの返事をかえしてきた。
 「駅で変な奴にからまれちゃいましてね。改札出て、やれやれって感じで階段降りてる時ですよ」
 駅で変な奴に。それはまた不運な話だ。
 「そいつ、いきなり、『あっ、痛い』とか言って睨んで来やがったんですよ」
 その変な奴は、突然『痛い』と……なんだって?
 「君は何かしてしまったのかい、つい肘を当ててしまったとか、足を踏んでしまったとか」
 「とんでもない、何もしてやしない、そいつはね、俺のパンチに文句をつけてたんですよ!」
 「他撲か?」
 なんだか今日はそういう話になる巡り合わせなのか。
 「いきなり見も知らない相手に痛い呼ばわりとはよっぽどのことだが……まさか、押さえつけてポカポカやったわけでもないんだろう?」
 「当たり前ですよ。俺はね、やっと殴れるやって感じで、階段降りながらワン・ツーってやってただけですよ。そしたら脇から、あっ、痛いって、わざとらしく大声出しやがって」
 「しかし、石丸くん、その駅は八並駅だろう? あそこは喫拳所以外は終日禁拳だぜ。階段だって駅構内だ。いきなり痛い呼ばわりも非常識だが、君にだって落ち度がないわけじゃないな」
 私は公正を心掛けている。こういう冷静さや寛容さが嫌拳者にもほしいところだ。いくらなんでも、知り合いでもない相手に突然『あっ、痛い!』はあるまい。石丸も悪意をもって拳を当てているわけではないのだ。
 「そりゃあ堅く言えばそうでしょうけどね」
 石丸は少し鼻白んだように口先を尖らせた。
 「だけど、昔と違って、今は全然殴る自由がないじゃないですか。前は、ホームだってどこだって、殴りたくなったらいつでも殴れたんだ。それが、今じゃあ、ここもダメあそこもダメ、ホームで電車が来るまで、誰かを殴っていれば時間もつぶせるのにそれもだめ、一体どこで殴れっていうんですか」
 「禁拳の表示のないところでだよ」
 私は穏やかに諭した。石丸はまだ若い。私のような経験豊かな先達が教え導いてやらなければ、社会のルールに適合できないのだ。 「階段はそりゃ禁拳だったかもしれない。でも、何がいけないんですか、ただ殴ってるだけですよ。そりゃ殴ってるんだから、拳ぐらい当たるでしょうよ。でもちょっと痛いからってなんだってんだ。こっちは他撲をやらないとイライラするし、殴れないところではずっと我慢を重ねてるんだ。嫌拳権だなんて間の抜けたネーミングの権利を振りかざしやがって、それならこっちの殴る権利だって尊重されなきゃおかしいじゃないですか」
 「だからこそだよ、石丸くん。だからこそ君は、駅構内から出るまで我慢するべきだったんだ。いくら人を殴ろうが文句を言われる筋合いのない道路に出るまで待っていればよかったんだよ。君はみすみす嫌拳者に文句を言う大義名分を与えてしまったんだ」
 「富山さん、だって、ただ歩きながら殴っていたって、とやかく言われるようになっちまったじゃないですか」
 石丸は疲れたようにトーンダウンした。
 「近くを歩いてた奴が、俺が拳を固めだすとわざとらしく顔をしかめて、拳の届かないところまで移動したりする。すぐ後ろにいた奴がいきなり走って追い抜いて行きやがった。俺はゴキブリ扱いかっての!」
 またすぐにエキサイトした。
 石丸の憤りも解る。嫌拳者の主張にはかなり大仰でヒステリックなところがあるのだ。
 他撲をやって自分が骨折するのは勝手だが、人を巻き添えにするなと言う。他撲のやり過ぎは健康によくないそうで、因果関係が証明されたわけではないのに、皮膚ガンの罹患率が高いとか言う。そして、殴る方だけでなく殴られる方の健康にも害があると言う。
 しかし、考えてほしい。他撲より問題にするべきことは、もっとたくさんあるはずだ。いったい、他撲のために骨折したとか皮膚ガンになったとか、死んでしまったとか、そんな人がどこにいるというのか。いないと言い切れるものではないが、探し回って見つかるというレベルだろう。
 比べて、たとえば自動車事故などで命を奪われる人は毎日かなりの数に及ぶ。たかだか人間の拳が触れた当たった、そんなことに権利がどうの加害者だ被害者だを持ち出している暇が有ったら、もっと大きな問題である交通事故防止などに取り組むべきではないのか。車が当たると、痛いどころでは済まないのだ。
 それなのに、暴走自動車は野放しで、ただ人間の拳を当てているだけの他撲ばかり目の敵にされ、諸悪の根源ででもあるかのように忌み嫌われる。
 嫌拳者は自分たちを一方的な被害者のように言うが、ストレス社会に生きる中で、たったひとつのささやかな楽しみが一発の他僕、そういう人間もいるのだ。そんな人達には、他人を殴る楽しみを奪われるのは、あまりにもつらい苦痛だろう。本当の被害者は、好きな時に好きな所で他僕をする自由を奪われた、愛拳家たちではないのか。
 家庭でも職場でも温厚篤実で信頼される人物を、歩きながら人を殴ったという、ただそれだけのことで疎外していいのか。そんなに殴られたくないのなら、自分が喫拳者に近寄らなければいいだけではないか。ちゃんと禁拳場所へ行くがいい。
 石丸をなだめる立場の私も、いつしかそんな思索に埋没していた。
 自分で意識するより、たまっていた鬱憤があったのだろう。
 「まあ、あまり相手にしないことさ。殴られるのをいやがるような奴には、人の痛みなんて解らないんだよ」
 とってつけたように私は言った。安易に石丸に賛同するようでは、軽挙妄動の謗りは免れまい。
 「まったく、こっちは別に、お前も殴れよとか無理強いしてやしないんだ。殴らないでいる自由を尊重してる。それでいいじゃないですか。こっちは殴る、向こうは殴らない。ここまでで平等だぜ。それをつけあがって、殴られない自由なんて言い出してさ、そうなるとこっちは殴れなくなっちまう。殴る自由が侵害されちまうんだ。向こうはいいや、何も我慢しないで、気分よくいられるんだからさ。こっちだけが一方的に我慢させられてる。おかしくないですか」
 「おかしいよ、なんかずいぶんおかしいよ」
 石丸の荒々しい声が遮られた。今のは私の科白ではない。
 「そうだろ、おかしいよな?」
 賛同者を得て、石丸の声がますます熱を帯びる。が、
 「違う、そうじゃない。さっきから聞いてたんだが、あんたの言ってることがなんだかおかしいんだよ」
 少し離れた席の西尾だった。私や石丸はエム・チームだが、西尾は以前さきほどの山田主任と同じジー・チームにいて、今はアール・チームに変わっていた。これは実はリタイア班のことで、要は戦力外と言ってもいい。今も、特にやることもやれることもなく、ただ自席で暇を持て余していたのだろう。
 石丸は顔を歪め、あ~ん? というような声を上げた。
 「なんだってえ? よく、聞こえなかったなぁ。もう一度、よく聞こえるように言ってくれないかなぁ、西尾くーん」
 明らかに西尾を揶揄する口調であり、表情だった。
 西尾の武骨な顔が、こちらははっきりと怒りと屈辱に歪んだ。
 「俺は、石丸くんみたいに能弁じゃないから、上手くは言えない。だけどな、なんだかやっぱり変だ。おかしい。それくらいは、俺にだって判る」
 「わかんねえよ」
 苛立たしげに石丸は言い、席を立ってわざわざ西尾の方へ向かった。私はその様子を眼で追いながら、とりあえずは静観した。あまりおおごとになるようなら、割って入らなければならない。いくら形式張らない自由なオフィスであっても、個人的な喧嘩までがクリエイトの一環になるとして奨励されるわけもない。
 「俺は能弁、お前は訥弁、だからなんだってんだ? 言いたいことがあるんなら、はっきりと言ってもらおうじゃねえか」
 うう、と西尾は口ごもった。
 「おかしいんだ、すごく……」
 「だからなにがだよ」
 「……俺は、他撲はやらない」
 冷汗か脂汗か沸かせながら西尾は言葉を絞り出す。
 「ああ、知ってるさ。お前に殴れなんて強制はしてねえよ」
 「俺は殴らない。あんたは殴る……」
 「平等だよな」
 「でも、あんたは俺を殴る……」
 「別に西尾君だけ殴るわけじゃないけどな」
 「あんたが俺を殴るのは、殴りたいから……だよな?」
 「だからさぁ、別に西尾君をじゃないんだよなあ。誰かを特にってんじゃないんだよ。俺は単に殴りたいってだけなの。それだけなんだよ」
 「とにかく、殴りたいのはあんたなんだ。そうだよな」
 西尾はもどかしげに言い募った。石丸もまだ未熟だが、西尾は自分の思惟をきちんと言語化する能力がやはり低いのだろう。これではプレゼンテーションが上手くできるはずもない。
 「ああ、ああ、そうですよ。俺は、殴りたいの。殴らせてよ、気持ちよく」
 「殴りたいのはあんたで、あんたは殴ることで気持ちよくなれる……」
 西尾は懸命に筋道をまとめようとしているようだ。そんなときこそ本当は、一発の他撲で脳が活性化する。とはいえ、オフィスは全面禁拳なので、西尾でなくても殴ることはできないのだが。
 「殴りたいのはあんたなのに、どうして俺が殴られないための努力をしなきゃいけないんだ?」
 「はあ?」
 「普通は、何かしたいとか、願望とかある奴が、それをやるために努力したりしないか? それができる場所に行ったり、できる時間まで待ったり。なんで、殴りたい奴等は好きな時に好きな場所でそれをやっていいんだ? なんで、殴られないためにわざわざこっちが、禁拳場所に移動したりしなきゃいけないんだ?」
 「馬鹿言ってるんじゃねえよ。好きな時に好きな場所でなんて自由はねえよ。喫拳所を探してそこまではるばる行かなきゃならないんだぜ」
 「だから、それは当たり前のことで、それをおかしいって言うほうがおかしいって言ってるんだよ。あんたは他撲をやりたいんだろ? だったら、それが許可されてるところにあんたが行けよ」
 「行ってるよ」
 「でも、あんたはそれを不満に思ってる。だから、禁拳の表示のないところなら、どこででも殴ってる。歩きながらでも、階段でも、バス停でも電車のホームでも」
 「禁拳でないところで殴ってて、なんで白い目で見られなきゃいけないんだよ。禁拳場所では我慢してて、やっと禁拳でないところに来て、やっとだって感じで殴るんだぜ。それをまるで悪の塊みたいな目で見られるんだぜ」
 「本当は、喫拳所がきっちりと定められて、そこ以外では殴れないようにすべきなんだ」
 西尾は調子に乗り、とうとう本性を現した。結局、そういいことが言いたかったわけだ。
 「なにぃ!」
 ついに堪忍袋の尾が切れたらしい。石丸は拳を固めて西尾に向き直った。ここまでだろう、と私は割って入った。
 「やめろ、石丸くん。僕が話そう」
 私は立ち上がり、2人の方に近付いた。
 「富山さん、この野郎はねえ!」
 「やめるんだ、石丸くん。オフィスで声を荒げる必要はない。西尾くん、このままでは仕事も上の空だろう。私がとことん、話し相手になろうじゃないか」
 「富山さんかあ……」
 西尾は、にやりという感じの表情を見せた。が、それは不敵というよりは照れたような、困ったような笑いに見えた。
 「富山さんには、いろいろお世話になってるから、あんまり喧嘩はしたくないんですよ……」
 「喧嘩じゃないさ。論戦だろ? 僕たちの仕事では議論も何かと必要だ。ロープレだと思えばいいさ。さて、さっきかなり過激なことを言っていたような気がするんだが」
 「いや、僕は、過激だなんて思ってないですよ」
 西尾はムキになった顔を見せた。もう引っ込みはつかない、そんな表情にも見えた。
 「他撲をする皆さんは、昔はどこでも自由に殴れたのに、今はすぐ白い目で見られる、肩身が狭い、虐げられてるようだ、そんなふうに言いますよね。でもさ、どこでも自由に殴れるなんて、そのほうがおかしかったんだって、そんなふうには思わないですか?」
 「どうしてだい? 誰だって、自分の好きなことを、好きなときにやりたい。当たり前じゃないか。逆に、昔は変に思われていたようなことが、今は普通にやれているくらいだろ? 電車の中や、歩きながらで、パンを囓ってるなんて、僕らの前の世代辺りだと考えられないことだったみたいじゃないか。そんなみっともないことはってね。化粧とか、そうそうケータイなんかもそうだな。他撲だけが、目のかたきにされてる。僕はそう感じるな」
 「うーん……」
 西尾は唸った。頭の回転は石丸と比べても、そう速いわけではない。他撲の一発でもやれば血の巡りが違うのではないか、と私は要らぬ心配までしてやった。
 将棋ではないのだから、あまり長考してもらっても困る。
 「……やっぱり、申し訳ないですけど、他の嗜好品とか、食べたり飲んだり、そういうのと、他撲はちょっと違ってると思います」 西尾はやっとのことで言葉を継いだ。
 「例えば、電車の中で酒を飲んでいたりして、そういうのも俺、なんだコイツとか思うし、酔っ払って因縁でもつけられたら愉快じゃないなとか思うし……でも、酒を電車の中で飲むのを特に禁じるまでなってないで、ただ他撲だけ禁じられてるのは、理由があるわけですよ」
 私は黙って聞いていた。とにかく言いたいだけ言わせてみる。鉄則以前の基本のことだ。
 「酒とかじゃなくて、例えばパンを食ってるとか、化粧をしてるとか……横の奴、前の席の奴、そいつらがそんなことしてたとして、それもオイオイって思うけど……パン屑が飛んでくるとか、髪の毛が降ってくるとか、そういうのがなきゃ、直接いやだなあってまではなんないじゃないですか。だからまあ、少なくとも、直で隣りにいるとかでもなきゃあ、まず被害はないし、隣りにいたって必ずってこともない。酒やケータイも、飲んでる奴が酒をこぼしてきたり絡んできたり、でかい声で電話相手と話してたりしなけりゃ……ああ、ケータイの電磁波のことは分からないけど」
 「他撲はどう違うっていうんだい」
 「だって、他撲は、とにかく拳が来るじゃないですか」
  西尾は急に勢いづいて言った。
 「他の嗜好品は、ほんとにそいつだけの楽しみで終わりますよ。飴を舐めようがガムを噛もうが、酒だって、こぼしたり酔って絡んだりしなけりゃなんでもない。でも、他撲は違う。最初から、周囲の誰彼構わず拳が飛んでくるのが前提なんだ。他撲をしているその人に悪意があるとかないとか、その人がどんな人格の持ち主だとか、そんなこととは関係なく、とにかく拳が来るんです。殴られたくない、殴られるのは嫌いだ、そう思っている人もいるのに、そういう人にいやな思いをさせてるって特に意識もしないで、殴ってる人だけが気持ちよくなってるんですよ」
 「かなり一方的な言い方だな」
 私は苦笑してみせた。
 「僕にはどうしても、なぜそこまで殴られるのをいやがるのかがミステリーだよ。まあ、聞いてくれ。確かに他撲は、殴られたくない人にも拳を当ててしまう。それはその通りだ。だけど、そこまで神経質になることなのかな」
 私は、まだまだ喋り足りなそうな西尾を制しながら言った。いいかげん、こちらの感じ方も伝えておかないと、ひたすら独善的な主張が拡がるばかりだ。
 「君たち嫌拳派は、よくいろんな材料を持ち出すね。殴られるのは健康によくないとか、皮膚ガンになるとか。だけど、たかだか人間の拳だぜ。そんなもので大運動して、禁拳場所を増やして、だけど、もっと取り締まるべきものがあるんじゃないのかい。交通ルールを守らない車や自転車なんかの方が、人間の拳なんかより、ずっと危険なのは間違いないじゃないか。他撲を排斥して大々的に運動する暇があったら、暴走自転車でも取り締まったらどうなんだろうね。なにかはき違えているというか、長い物には巻かれて、我々弱い立場の愛拳家ばかりがいじめられている感じだよ。ほんとにどんどん肩身が狭くなっていく」
 最後のほうは、少し厭味が入ってしまったかもしれないが、正直な気持ちなのだ。
 「……肩身が狭いって、弱い立場って、ただ殴られてる側からすれば信じられない言い方ですよ……」
 西尾は、こっちこそが信じられないようなことを言い出した。
 「なんだって?」
 「いや、それは俺、富山さん個人のことは分からないですよ。でも、俺が通勤途中で出くわす喫拳者の人達は、全然肩身なんか狭くないですよ。歩きながら、それも朝夕の通勤時間で道じゅう人がいっぱいの中で殴ってる人は山ほどいますよ。歩きながらだけじゃなくて、自転車に乗ってる奴が他撲をやってて、擦れ違い様に一発殴られることも割りとあります。バイクや、それから車の窓からニョッキリ手が伸びててなんてのも、よくあります。俺自身がバイクで走ってたら、前の車の窓からパンチが飛んできて事故りそうになったことだってある」
 「それはリーチの、いや、マナーの問題で、確かに一部の喫拳者に問題があるのは確かだろう。だが、歩き他撲までそんなにダメだしされたら、ほんとに我々はどこで他撲をすればいいんだい。あんまりじゃないか。だから肩身が狭いって言うんだよ」
 「歩き他撲までって言いますけど、道路は喫拳所じゃないんですよ」
 「ほとんどの場合、禁拳所でもないと思うがね」
 「そう……そうなんですよ。ほとんどの道路は禁拳場所じゃない。だから、喫拳者の人達は殴るわけですよね。その自由がある。喫拳者の人達は、禁拳場所でさえなければ、どこででも殴れるんですよ。そして、それに対して白い眼を向けられて不愉快に感じてる。その気持ちは当然だと思うんです。だけど、こちらはこちらで感じるんですよ。喫拳所じゃないのに、って。殴られたくないから、喫拳所や喫拳可の店とかには行かないようにしてるのに、道を歩いてると、どこかから拳が飛んでくる。前や横を歩いている喫拳者が他撲を始めたんです。殴られたくないな、いやだな、と思ったらどうすればいいと思いますか? 他撲をやめてほしいと言ったとしたらどうなると思いますか? 富山さんなら、見ず知らずの誰かにいきなりそう言われたらどうですか。歩き他撲をやめますか?」
 「それは状況に依るね。小さい子やお年寄りに、痛いからやめてほしいと言われたら、やめるだろうな」
 「やっぱり富山さんは公正だな。正直だ。俺みたいな男に言われたんだったら、富山さんは、いや、石丸くんでも他の誰でも、不愉快に思いこそすれ、まずやめないでしょうね」
 あたりまえだ。禁拳場所でもないところで、いきなり変な男にそう言われて、どうして喫拳をやめる理由になるものか。
 「つまり、禁拳所以外は、喫拳所なんですよ、みなさんにとってはね。道でも、駅のホームでも、バス停でも、タクシーを待つ列でも、禁拳の表示さえなければ、どこででも殴る。駅のホームでは、禁拳表示があって、アナウンスで禁拳の呼び掛けをしてたって、禁拳マークのすぐ前で、それこそマークを眺めながら平気で殴ってる人も多いですけどね」
 「そういうマナー違反者と一緒にしてもらいたくないね」
 「一緒にはしないですよ。ただ、そういう人達が決して一握りじゃなくて、どの駅のどのホームにも、一人や二人じゃなくてかなりの人数でいるっていうことです。そして、別に悪いことをしているなんて思っていない。注意を受けようものなら不愉快そうな顔をして、中には怒り始める人もいる。だから、まず注意しようなんて嫌拳者はいませんよ。余計にひどく殴られかねないんだから。でも、富山さんの言うそういったマナー違反者でなくても、たとえば石丸くんみたいな人だって、駅の改札を出ると、待ち兼ねたようにシャドー他撲を始めるわけですよ。そして、外へ出る階段ではもう殴り始めている」
 「ねちっこい野郎だな」
 本当にそうだ、嫌拳者に共通する嫌味っぽさだと思ったが、私は黙っていた。口を開くと、つい石丸同様抑制の足りない悪罵めいた言い方に走りそうだったのだ。
 「みなさん喫拳者の気分としては、禁拳という制限のあるのが不当なことで、禁拳場所にされているからやむを得ず殴らないでいる。禁拳でさえなければ、本当はどこでだって殴りたい。どうして制限なんかされなければいけないのか。そう思っているわけですよ」 西尾は、最初の訥弁ぶりが巧妙な演技だったかのように、人が変わった演説モードだった。確かに、ふだんの西尾ではなかった。石丸など、癇癪を噛み殺しつつ、同時に目を丸くするという、変な離れ業に自らをはまり込ませていた。
 「そんなにまで殴られるのがイヤなら、禁拳場所へ行けばいいと思うがね。そこでマナー違反者がいたら、今みたいに思う存分罵ればいいじゃないか。だけど、別に禁拳でないところで殴っていて、それをとやかく言われるのは、やっぱり不愉快だな。禁拳でないところでは、お互い平等なんだからね。我慢し合うことが必要だ。そうだろう?」
 「そうだぜ、そうだぜ」
 「我慢し合ってないですよ。禁拳ってされてないところで殴るのを我慢してる人なんて、全然いない。殴ってない時があっても、それは別に我慢してるんじゃなくて、単に殴ろうって気分になってないだけなんですよ。だから殴りたくなったら、すぐに殴り始める。子供がいようと病人がいようと、おかまいなしだ。そして、殴られた人が『あっ、痛い』とでも言おうものなら、ものすごく不愉快そうな顔になって睨んできたり罵ってきたりする」
 睨んだり罵ったりしてるのは、そっちじゃないか? と思った。こちらには別に喧嘩を売る気など、そもそもないのだ。それを大仰に痛いだの苦しいだの突然言われれば驚くしかない。
 「君達はいつも、殴られるのは迷惑だ、殴るのは勝手だが殴られる方の痛みを感じろ、と言うね」
 私は静かに反論を始めた。さすがに、これ以上ただ言わせていると、石丸の堪忍袋がはち切れかねないとわかったからだ。
 「しかし、我々喫拳者にとって、喫拳しないでいるというのは、それこそ苦痛なんだ。年々、気楽に人を殴れる場所は減る一方だ。食事中にも殴れない、駅でもバス停でも殴れない、いよいよ道を歩いているときまで殴るなというのは酷すぎないかい? いったい、どこで殴ればいいんだい?」
 「殴らなければいいじゃないですか」
 西尾は平然として冷たく言い放ち、私を唖然とさせた。
 「それはあんまりじゃないか。君は水を飲むなとか空気を吸うなとか……」
 「他撲は水でも空気でもないですよ。それこそ、皆さんの言う、オーバーだ、ですよ。人を殴らなくたって生きていける」
 「殴れないつらさが君にはわからない」
 「わかりませんね。どうして殴るんです? 他のことでは、あらゆる点で、俺は富山さんを尊敬してます。仕事だけじゃない、親切で思いやりがあって、相手の気持ちを汲むとか、人間性って点で俺なんか足下にも及ばない。その富山さんが、こと他撲ってことになると全然周囲に気配りしない。いや」
 西尾は私を遮った。
 「サ店で、殴り始める前に『いいかな?』って聞いてるなんて、あれは無意味なんですよ。聞かれて『いやです』って言える奴なんていない。携帯紙皿を持ち歩いてて、殴ったあと拳に付いた血や脂を拭った拭き殻をポイ捨てなんかしていないって? でも、拭き紙のパッケージを開けた時、そのセロファンやリボンを歩きながらでも捨てたりしてますよね。使い切って空になったパッケージも、クシャクシャって丸めて道にそのまま捨ててないですか? 富山さんは、他のゴミ屑なんかなら、間違っても道端に放り捨てたりしない人だ。なのに、少しの躊躇もなく、そのパッケージは捨ててるんですよ。どうしてですか?」
 「君の言いたいことは解った」
 と、私は冷静に言った。
 「だが、考えてみてくれ。君達は拳を喰いたくない。私達だって、別に君達に痛い思いをさせようなんて意図はない。そこまではいいね?」
 西尾は未練がましく何か言いたそうだったが、私の落ち着いたまなざしに口を閉ざした。疚しいところも恥じるところもない私は、西尾のように醜く捲し立てる必要がない。心静かなるは無敵なり。明鏡止水とは、まさにこのことだ。
 
 (前編ここまで)

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