佐々木丸美 ネタバレあり注意。

 初めて読んだのが、大学の頃だったのか、すでに卒業してからだったのか、もう、はっきりは憶えていない。いずれにしろ、当時は“本格”型のミステリ一辺倒で、ミステリとしての趣向が目立っていなければ、殆ど興味や評価の対象とはしていなかった。そもそも、ミステリ的興趣か、もしくはSF的興趣かでもなければ、最初から手を伸ばそうとすらしないタイプの読み手だったのだ。
 そんな読み手に育ったのは、子供時代「ミステリ、SF>普通の小説」というある種の刷り込み、洗脳がされていたからなのだが、そのことはさておき、たとえどんなに世評が高かろうと、ミステリでもSFでもない書物には、まずもって手を出そうなどしなかったのだ。――まあ、世評の高い、流行っているものに敢えて背を向け、手を出そうとしないのは、今も全くそのままなのだが。
 それが、「佐々木丸美」に辿りつけたのは、とにかくは講談社文庫のおかげだった。文庫の裏表紙の解説が、とりあえず「ミステリ」としての紹介、案内をしてくれていたので、何はともあれ手にとることになったのだ。そうでなければ、どこをどう叩いても、「雪の断章」「忘れな草」「花嫁人形」といったタイトルの小説に、私が手を伸ばす理由はなかった。
 さて――というわけで、いつ最初に読んだのかも憶えていない“ミステリ”の「雪の断章」なのだが、ご存知の通り、実質ミステリ的興趣は薄い。薄いというより、作中の事件は寧ろ余分だったきらいすらある。史郎さんが犯人だったと言われても、あの史郎さんが本当に殺人なんか犯すだろうかと思ってしまうところまである。(比べて、「崖の館」は、非常にスタイル的には、本格ミステリのスタンダードに近い。“トリック”すら設置されて、ミステリと言われて違和感がない)
 だから、たぶんは最初は「読み捨て」で終わったのではないかと思う。実際、講談社文庫が続いて上に書いたように「崖の館」を出して興味をつなぎ止めてくれなければ、佐々木丸美とのコンタクトは、このまま終わってしまっていたかもしれない。
 「崖の館」がミステリのスタンダードのように書かれており、しかもその「犯人」像やトリック等が――そしてまた、キャラクター達の会話などの文体が、個人的になかなか面白かったため、幸いにして、「佐々木丸美」の名前は記憶に留められることになった。講談社文庫が引き続き、シリーズ作品を出し続けてくれたのも同じく幸運だった。なぜなら、「崖の館」に続く“館シリーズ”は、シリーズであるという点で興味を引き、しかもこの“館シリーズ”は“孤児シリーズ”にリンクしてくれた。今でも実はそうなのだが、私は、作品世界をまたがってリンクした登場人物や設定というものに弱い。好みなのだ。――実は、とか、こんなところにあの人が……、といった驚きや発見が面白く、ときには感動すらおぼえる。だから、「雪の断章」の飛鳥の仇役である「本岡家」が、「夢館」の中で“発見”されたとき、“「佐々木丸美」の作品群”への興味は急激にふくれあがったわけだった。――そうか、リンクしていたのか……じゃあ、もう一度ちゃんと読まなくちゃあな。あるいは、今まで読んでいなかったものも読んでみなくちゃな……、それが、ある意味スタートラインだったのだ。

 「雪の断章」は、とことん書き込まれたビルドゥングス・ロマンである。とはいえ、ヒロインの飛鳥は、最初のページから最後のページまで、実はそんなにビルドゥングス、成長したわけではなさそうだ。年齢はもちろん10年スパンで成長しているわけなのだが、その性格性質は、あすなろ学園当時から、最後のシーンに至るまで、実はそれほど変化はない。――さすが飛鳥だ、というわけかもしれない(笑)。この飛鳥の“変わらなさ”は、他のヒロイン達に比べても顕著な気がするのだが、にも関わらず情愛のうねるようなダイナミズム、変遷が大きいため、400ページにわたるページ数を、飽きることなく、成長小説として読まされてしまうことができるのだ。
 多くの登場人物たちも印象強く、そのため1つ1つのエピソードがまた印象深い。仮に登場人物の名前は失念しても、エピソードそのものやセリフのニュアンスはいつまでも記憶に残ってくる。その中で、ただ本岡聖子は殺されるためだけに出てきたような感があり、残念だ。殺人そのものが主人公たち全員の繋がりに大きく影を落としていた「崖の館」と違い、この「雪の断章」では“ミステリの要素を入れるため”、殺人事件が起こらされてしまったような気がしてしまう。もし、この事件なしで「雪の断章」が書かれていたなら、一体それはどのような物語になっただろうかと妄想してしまうこともある。聖子はともかく、事件そのものが史郎の性格と相容れない気がしてしまうのだ。
 とはいえ、「雪の断章」トータルで見たとき、仮にこの“殺人事件”を瑕瑾だとしても、青春小説、成長小説として、読み返すほどにその度感動のある出来であるのは間違いない。
 散文詩めいた装飾の文体と思われる向きもあるかもしれないが、会話のテンポ、地の文のうねりなど、読めば読むほど味が出るとしか表現できない不可思議なフォースが流れている。どんなにネタやプロット、ストーリーが面白くても、無味乾燥な会話や文体だと読み進めるオーバードライブが発生しないのだが、そういったタイプと正反対である。

 「崖の館」は、先にも書いたように、スタイルとしては非常にスタンダードな“本格ミステリ”の体裁を整えている。“余分な登場人物”のいない密室的舞台の中での事件、残された謎、発見される日記、連続する事件、トリック、犯人と、「雪の断章」での殺人事件が取って付けた感のあったのと比べて、これでもかとばかりにガジェットが放り込まれている。
 だがしかし、登場人物たちの人間像、会話の魅力、語られるエピソードの印象など、これらは「雪の断章」から変わるところはない。開き直ってただの推理小説に徹しました――というところは全くないのだ。
 強いて難癖を付けるなら、「雪の断章」同様、あまりに登場人物の人間像が圧倒的なので、「この人が犯人」と言われても、「とてもそんな気がしないよ?」となってしまう部分だろう。「犯人」と指摘されてから吐露される動機や信念は、それはそれでいいのだが、やはり納得いかないというところが残ってしまうのだ。
 本格ミステリのスタイルでは、巧妙な仮面を付けた犯人、奸智に長けた知能犯は、犯人としての人格と、仮面を付けた人格とは、可分である。仮面はあくまで仮面であり、要は「偽善」だったり、果ては二重人格だったりする。しかし、棹ちゃんはそういう殺人者とは違っている。犯人と名指されたときから、まるで犯人としての役柄を一生懸命演じ始めているように感じるのだ。それも、普段の棹ちゃんが偽善の仮面だったわけではない。いや、もしかしたらそのように描いているのかもしれないが、あまりに棹ちゃんのキャラクターがしっかりしているので、偽りだったとは納得できない、冗談としか思えないのだ。
 「崖の館」を読み返すたびに、頭の中には「棹ちゃん不犯人説」が形作られてしまうのだが、これを書いている今も、やっぱり書きながら、「あれは、棹ちゃんは何者かに操られていたのではないだろうか?」とか思ってしまっている(笑)。
 ミステリの犯人のパターンで、こういう棹ちゃんタイプのものは、もちろんいくらでもありはする。江戸川乱歩の××(××の翻案だが)や辻真先の××のように、性格が良くて好かれているキャラクターが実は……というパターンだ。中には、作者が「こんな性格のいい奴なんかいるもんか。性格のいい奴なんて、実は偽善者に決まってる。あり得ない」と主張しているように読める場合があって、そんなのを読んだときは、何となく不快になるものだ。
 ところが、「崖の館」では、それどころか、あまりに人物造形が強固なので、「棹ちゃんが犯人? 冗談だろう」になってしまうのだ。犯人と名指される前の棹子と、名指された後の棹子が不可分で、素直に納得しにくいのだ。
 このように書くと、棹子ファンだからだろうと思われるかもしれないが、お気に入りというなら××の犯人だってお気に入りである。……が、実は個人的には由莉ちゃんが一番のお気に入りなのだ。涼子もいいが(何がだ(笑))、由莉ちゃんの心情吐露の場面に胸を打たれる。
 強いて、棹ちゃん犯人説を認めるとするなら、棹ちゃんは決して偽善者だったのではなくて、逆に寧ろ、偽悪に圧し潰されてしまったのだろうと思っている。「悪い奴」を装わずにはいられなくなったのだ。それなら、なんとなく納得できないものではない。しかしその場合、やはり棹子の心をそちらに向けて後押しした真犯人の存在を想定しないではいられないのだが……棹子の心のバランスを突っついて崩した何者かがいるのではないか……?
 一度、棹子の人称による1つの物語を読んでみたかった。そう思っている。

 「忘れな草」は特に好きな物語の1つだ。ヒロインの葵も、そして楊子も、それぞれ違った意味で鮮烈な印象を残している。飛鳥や涼子は「罪」を犯すことはなかったが、葵はその手を汚してしまった。楊子もそうだが、物語の構図からすれば、葵が罪を知ってしまったのは印象深い。これは、あとの「花嫁人形」での昭菜の行為でさらに発展してしまうのだが、葵の罪は昭菜のそれとはまた違っている。昭菜はその瞬間確信犯になっていたが、葵は或る意味自分を甘やかし、まるで無自覚のように犯罪者となってしまった。飛鳥のような、あるいは楊子のようなヒロインなら、その意志によって罪にも手を染めることがあるかもしれない。しかし、「泣き虫葵」は寧ろ涼子に近いヒロインだ。弱者の側、守られる側であり、まるで正義にくるまれたように柔らかなヒロインだったはずなのだ。
 しかし、それが故に、自らをごまかしながら、罪を犯していく。これはつらかった。そして、仇敵のようにみなしながらも、その実いっぱいの愛情を抱かずにいられない楊子を失ってしまうのだ。
 葵と楊子の関係性からすれば、逆に“フェニックス”高杉の影が薄くなってしまう。
 物語には、主人公とは別に、その物語を支える「大黒柱」があるものだが、「雪の断章」では、祐也と史郎が実質「ワンセット」で物語の柱になっていただろう。「崖の館」では、すでに死んでしまった千波の存在がまさしく柱である。そして、この「忘れな草」では、楊子こそが物語の柱なのだ。だから、「雪の断章」「忘れな草」は、その柱たちが失われたときに物語は終了する。「崖の館」は逆に、千波が退場することがない故に、「水に描かれた館」「夢館」と続き、ついには千波がヒロインとして再生する。
 結局、葵にとっては楊子こそ最も大切な存在だったのではないだろうかと思う。高杉は愛の対象かもしれないが、楊子は葵の一部、というより半身だったのだ。それは例えば、2人の沙霧のように。
 楊子は消え、ひょっとしたら、葵の内に還元していったかもしれない。

 「花嫁人形」が入り口だったという人も多いようだ。「雪の断章」から順に読むことになった身からすると、そんな途中から読んで大丈夫だったのかなどと要らぬ感想を抱きもするのだが、特段なんのマイナスもないらしい。やはりプロットやストーリー自体のことより、登場人物たちの印象強さ、エピソード1つ1つの印象深さというのがあるのだろう。カルタで字を覚えるシーン、ひとりぼっちのカルタ取りのシーンは確かに忘れられるものではない。
 そしてまた、昭菜は葵に続いて「犯罪者」となるヒロインでもある。おそらく、葵の罪より昭菜のこちらを「罪」として明確に認識する人も多いだろう。普通、「正しい主人公」はここまではっきりした「犯罪」を実行してしまうことはない。だが佐々木丸美は「罪」についてとうとう突きつけ始めたのだ。これがのちのち「罪灯」「罪・万華鏡」に拡がっていく。
 ここではヒロインの愛の対象は、「忘れな草」の高杉からさらにヒロインにとって厳しい存在になる。橘がノートを引き裂くシーンも強烈だ。「雪の断章」の祐也も解りにくいところが様々にあったが、高杉、そして橘と、どんどんヒロインの愛は試練の部分が強くなる。読者にとっても、彼ら男たちは内面も窺い知れず、全くといえるほど感情移入は出来にくい。
 物語の柱は、ラストシーンの雪が象徴する限りでは郁ちゃんだろうが、織ちゃんの印象もまた強い。男たちの人物像が秘密の中でぼやけてはっきりしなくなる分、女性たちは十分それぞれのストーリーを背負って立っている。直接の登場でなくとも、飛鳥や葵の影がちらつくのが、リンク・システムとして感動的だ。

 「水に描かれた館」は、「崖の館」に続くミステリー・シリーズだが、後の作品を見ると、結局犯人は特に裁かれることもなかったようだ。催眠による操り、殺人とはかなり危険な犯人のはずだが、そのまま主人公達と馴染んでしまったらしい。この作品の犯罪トリックも珍しいものだったが、実は一番記憶が残っているのは「洗濯機」のシーンだ。ふつうなら、関係ないなと済ましてしまうところだが、とにかくセリフや文体のタイミングがいいので、はまりこんでしまうのだ。この作品で強調された神秘主義的な部分は、「夢館」で1つのピークを迎え、以降ミステリからファンタジーの方向へ拡がりが増していく。「孤児シリーズ」は万人(?)受けかもしれないが、「館」シリーズは読者を相当選びそうである。が、この「水に描かれた館」はとりあえずまだミステリの体裁を保っており、「あやつり」タイプのミステリとしてはかなり大胆なものを展開している。
 アガサ・クリスティー「カーテン」の犯人など、「あやつり」の犯人はかなりの知能犯が多い。高木彬光「呪縛の家」、都筑道夫「キリオン・スレイの敗北と逆襲」、いずれも名探偵は“真”犯人に辿りつきながら、具体的に“検挙”することはかなわない。結局、「カーテン」のように、悲劇的な最期を遂げる場合も出てくる。
 しかし、「水に描かれた館」の犯人は、「あやつり型」としては型破りに、自ら積極的に「犯罪」を実施している。通常の「あやつり型」とは正反対と言っていいほどである。動機、行為の実験性、愉快犯的な在り方は共通しているが、ただ心理学的手法を用いて犯行を操っているのでなく、「催眠」とした実質的な「手を染める」ところまでやっているのだ。
 現在では、京極夏彦の作品等で、こうした大胆不敵な「あやつり」型犯人も出現しているが、当時としては途方のないものだったのではないだろうか。
 この縦軸と、転生輪廻の愛という横軸が絡んで、ミステリー・ロマンと謳うにふさわしい作品となっている。そこから、ヒロインのダブルキャスト、孤児シリーズとの融合と、ダイナミックに炸裂した「夢館」につながっていく。

 「夢館」は、辛うじて犯人捜しの部分を残しながら、孤児シリーズのスタイルを踏襲し、決定的な融合を為し、そして壮大な“伝説”シリーズにつながった館シリーズ一旦の終結作になる。(同時に孤児シリーズの集約作でもあるのだから、それまでの作品の集大成というべきか)
 スタイル上では孤児シリーズだが、そしてシリーズ上では館シリーズだが、ここでもまた佐々木丸美は平気で型破りなことをやっている。1つは、館シリーズとしての前作「水に描かれた館」からの時代設定を大きく先へ進めて、シリーズのヒロインだった涼子を交代させて、「崖の館」「水に描かれた館」で影の大黒柱としての存在だった千波を、しかも「水に描かれた館」のファンタジー・ロマンをエスカレートさせた形で生まれ変わらせ、ヒロインとして登場させているという点。そしてもう1つは、その千波のキャラクターが、「崖の館」「水に描かれた館」で顕されていた彼女とは全く違う形で登場してきているという点。これらは普通のシリーズものではおよそ考えられない型だ。(しかも、こののち「伝説」シリーズでは再び時間が戻って、ストレートな「水に描かれた館」の時間軸に戻ってくる)
 のちの「風花の里」「影の姉妹」らも含めて考えれば、まさしく大河SFめいた壮大さすら窺える。しかし――そしてなおかつ、あくまで底にあるのはひたむきな恋、いたいけな愛、人類がどう世界がどうというテーマではなく、最後の最後まで、ヒロインの抱いた「恋愛」ただ1つに収束されるのだ。
 「恋愛今昔物語」シリーズの存在があるように、佐々木丸美のミステリもSFロマンも、テーマは結局常に女性たちの業火のような恋愛である。唯一、最も本格ミステリの体裁に則った「崖の館」がそこから外れた感もあるが、あれは、棹子の千波への物狂おしい恋愛感性だったような気もする。「忘れな草」が葵と楊子の戦わずにはいられない激しい愛憎だったのと同じに。
 愛がすべて――語られる青春も友情も、全て“愛”に向かって組み立て作られていく。登場人物たちが傾倒する哲学も心理学も、やはりヒロインの愛のパーツ、ピースに連なっていく。
 どんなに離れても失われても、距離ばかりか時間も“世界”さえも超えて、彼女たちは愛を抱き、取り戻し、身を焼き続ける。それは妄執として殺人にも裏切りにも走ることもある、そんな危うさを孕みもしているが、比類ない強さと純粋さに結晶もできる。これは裏腹、二律背反、それであるが故に尽きることなくスリリングだ。
 「雪の断章」「忘れな草」「花嫁人形」「崖の館」「水に描かれた館」、いずれにおいても、まだ“愛”は成就するところまで描かれていなかった。あるいは成就に程近くとも、代償として失われたものがあった。「夢館」においては、転生輪廻の業まで駆使して、ついに恋愛を成就させた。ここまでにどれだけの雪が降ったことだろう。しかし、それでもまだやり残したことがある。
 全ての恋愛を成就させるために。

 だから、“伝説”はさらに深く、強く、語られ始めたのだ。「風花の里」という触媒を経て、「影の姉妹」「沙霧秘話」のバックボーンを得て、「恋愛今昔物語」「舞姫」の実践編を加え、「罪灯」「罪・万華鏡」を規範として。
 伝説は――さらに深く、強く。

 待ち続け、仮に与えられることなく、この世での語りは終わっても、またいつか巡り会えるだろう。それがまた1つの伝説になるだろうから。

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