見出し画像

【イギリス→山奥→新天地】運命共同体としての家族。君のために何かできるのなら、お母さんは1mmも迷わない。あと、エゴサーチでお父さんに勝ちたい!

「ぼくさ、お父さんと離れたくないな。3人で一緒に暮らしたい。」

と息子が答えた。その瞬間に、私の腹は決まった。退職、大学院の休学。1mmの迷いもない。だって、君にとってのベストな選択が、お母さんにとってのベストな選択なんだ。

 富田家では、運命共同体としての家族という考え方がベースにある。家族で最優先するのは、息子である。

「息子にとって何がベストか?」を全力で考えると、選択するのは非常に簡単だ。

私にとって、人生のあらゆる選択が、非常にシンプルになった。
 息子にとっての一年は貴重だ。君が新しい小学校になじむためにも、転校するのは早い方がいい。君がお父さんと離れたくない気持ちもよく分かるよ。お母さんだって、2人より3人で暮らす方が楽しいだろうなって思うから。大丈夫、家族は運命共同体なんだから。

 お母さんはこの決断を後悔しない。絶対に人のせいなんかにしない。これからも絶対に、人生を最高にしていくんだ!


1.結婚すると窮屈な人生になるという人もいるけれど、夫が私の夢をかなえてくれた

 結婚すると窮屈な人生になるという人もいるけれど、私は結婚して随分自由になった。20歳で1年間アメリカの大学に留学して、「あともう一回くらい、別の国で暮らしたいな」と夢みていた。さすがに結婚したら難しいかなと思っていたが、夫には伝えておいた。夫も海外生活には興味があって、海外赴任の選考に応募したいと言うので、全力で応援した。

 「どの国行きたい?自分としては、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランスだとやりたいことができそうだけど。」

 当時妊娠中だった私は、「子育てするなら、イギリスがいいな。」と答えた。私が手を放しかけていた夢を、夫が叶えてくれた。

 0歳児を連れて海外赴任に帯同するのは、賛否両論あるだろう。私は育休中だったし、家族は一緒にいたいと思っていたから、息子が6か月になったら渡英しようと決めていた。最初の半年で子育てのリズムは何とかつかめそうだし、大体予防接種を打ち終わるので、その後なら渡英できそうだと思った。
 1年弱の滞在だったが、イギリスで子育てしながら、時折ヨーロッパを旅行する日々は、最高だった。土足で歩くカーペットの上を、赤ちゃんがはいはいする。日本人のお母さんだったら、遠足用のシートかブランケットを敷きたくなるような場所だ。母乳で育てる人は意外と少なく、カルチャーショックを受けた。
 赤ちゃんとお母さんの集まりに行くと、どんな言語を話す子ども達とも、息子は仲良く遊んでいた。皆、それぞれの言葉や、何だかよく分からない音、身振り手振りでコミュニケーションをとっていた。子どもってすごいな、人種も国籍も宗教も言葉を超えていくなぁと感心しながら眺めていた。彼らは可能性と才能と未来のかたまり。
 日本にいたら、見ることができなかったであろうシーンもたくさん見ることができた。ヴェルサイユ宮殿で指しゃぶりをする息子は、小さな王子様のようにかわいかった。ポルトガルで出会ったブラジル人の少女とは、初対面なのに30分以上遊び、最後は肩を組んで笑っていた。コペンハーゲンでは、クマさんの着ぐるみのようなモフモフのコートに包まれた息子の後をついて、キャーキャーいう女性グループに出会った。
 3歳になるまでに、息子は9ヵ国訪問した。既製品の離乳食を買ったこともあったが、フランス製がお気に入りでグルメだなぁと感じた。親の都合で連れまわしてしまったとも言えるが、彼が健康でいてくれたから、たくさん旅に行けた。本当に感謝している。

2.「自然と共に学ぶ小学校に通ってほしい」から、山奥に引っ越す

 しばらく平和に暮らしていたが、息子が幼稚園年長さんだったある日、小さな小さな小学校に出会った。「自然と共に学ぶ」ことを大切にした、自然から少しだけ場所を借りているような、素敵な小学校だった。虫取りも鳥も葉っぱもお花も大好きな息子。

「息子がこの小学校に通ったら、絶対素敵だ!」

 直感でそう感じた。だから、夫と2人で学校見学に行った。一年生の算数の授業。1人ずつ黒板の前に立って、画用紙に書いた自作の算数の問題を発表していた。クラスの皆が挙手をして、答えていた。答えた男の子が、
「どうですか?」
とクラスの皆に聞く。皆は、
「いいと思います。」
と大きな声で答えていた。1人2問ずつ発表して、答えるのも順番に当たっていった。1人で何度も発言をする機会があった。

 あぁ、この学校は息子が気に入りそうだな。夫も同じ考えだった。だから、引っ越すことに決めた。夫は徒歩通勤から車通勤に変わるから、車をもう一台買わないといけない。夫の通勤は徒歩5分から車で20分に、私の通勤は片道25分から1時間に延びる。でも、そんなことはどうでも良かった。息子にとってのベストな環境だと信じた、その小学校に通ってほしかった。

 引っ越し先を探すのは難航した。元々アパートは存在しない地域で、唯一あった市営住宅は条件が厳しくて、私達は適応外だった。残る手段は、空き家を借りること。ネットで毎日情報を検索しながら、毎週末、その地域に出かけて行った。そして、散歩中の人や畑を耕している人に、片っ端から声をかけた。

「息子を〇〇小学校に通わせたいんです。空き家を貸してくださる方、ご存じないですか?」

不審者と思われないように、注意深く、良い人風の雰囲気を出しながら、声をかけていった。

「空き家はあるんだけどね。貸したくない人ばかりなのよ。」

 昔からの土地柄か、なかなか外から来た人には閉鎖的なコミュニティのようだった。毎週末、撃沈して帰宅していた。
 もう無理なのかと諦めかけていたある日、その日初めて話しかけた人が、
「✖✖さんなら、知ってるかもしれないよ。」
とわざわざその場で電話をかけてくださった。その電話の相手からご紹介いただき、後の大家さんと繋がることができた。熱い想いを伝える機会がいただけて、見学を経て、家を貸していただけることが決まった。後から伺った話によると、過去10年間何度も貸してほしいと言われていたが、断り続けていたらしい。私達は、「子どもを〇〇小学校に通わせたい」と伝えてきた初めての家族で、〇〇小学校出身の大家さんの気持ちが動いたらしい。本当にありがたかった。

 息子はここでの暮らしをとても楽しんでいるようだった。隣の家が離れているから、にぎやかにしても大丈夫。階段からジャンプしても、夜歌を歌っても、BBQで外でお話をしていても大丈夫。夏場は庭に巨大なプールを出して遊んだ。
 外で虫取り網を一振りすると、蝶を2匹捕まえられることもあった。見たことがないくらい大きなバッタやカマキリが草むらから出てくることもあった。庭に時折遊びに来てくれる動物たちの糞を眺めては、どんな動物が来たのか想像した。時々野生動物を目撃することもあって、一生懸命観察した。

 春の朝、小鳥の声で朝目覚める。近くの小川のせせらぎだけが、夜に聞こえてくる。空気がきれいで、胸にいっぱい吸い込む。周りの緑が美しい。絵画みたいだ。今までは歩くことがそれほど好きでなかった夫でさえ、週末にお散歩に連れ出すと楽しそうだった。時には先頭をきって山道を進む夫を見ながら、昔の人ってこんな感じで開拓していったのかなぁと、想像してみたこともある。
 蛍が飛ぶ季節には、近所に見に行った。ぼんやりと光って飛んでいく蛍は幻想的で、ずっと眺めていられた。息子の服に蛍がとまった時は、あまりの美しさに時が止まった。

 庭には樹齢100年くらいの梅の木があって、無農薬の梅を息子と二人でとって、梅ジュースをつけた。人生で初めて梅干しも作った。我が家では消費しきれないから、周りの方にも差し上げた。
 そして、一年を通して、様々なお野菜や果物をおすそ分けでいただいた。近所のおじいちゃまが、息子専用の区画を決めて、スイカ、サツマイモ、白菜などの収穫をさせてくれた。「オクラはこうやってなるんだ。」「この野菜はここから切るんだ。」季節ごとに旬のお野菜を収穫させていただいて、そのおいしさに虜になった。
 息子は畑を巡る用水路に夢中になって、石で水の流れを弱めようとしたり、時には靴のまま飛び込んだこともあった。息子はくわなどの農具に興味をもち、使い方を教えていただいていたら、畑を耕すのが好きになった。秋や冬には、一緒に焚火をしながら、火を絶やさないように木を追加する術を学んだ。缶ジュースを片手に、おじいちゃまと色々なことをお話しした。
 
 冬は寒い。でも、明かりが邪魔をしないから、星空はいつも美しい。毎晩最高の夜空を眺めて、自然の音以外に何も聞こえてこない素晴らしさを感じながら、ぐっすり眠った。
 私達は冬にもよくBBQをした。焚火を囲んで、おいしいお肉を焼き、ジャガイモをアルミホイルでぐるぐる巻きにして、焼いた。どれもほっぺたが落ちるほどおいしくて、最後はマシュマロを焼いてクッキーに挟んでスモアをつくって食べた。

 仕事は忙しいけれど、穏やかな自然に囲まれた毎日を過ごしていた。夫は「急に引っ越すと言われた時は驚いたけど、直感がさえてるって知ってるから。結局最高の選択だったよね!」と笑っていた。直感だけで小学校を決めた私もどうかしているけれど、車一台買ったり通勤時間が延びたりすることを厭わないのは、さすが運命共同体ねと妙に感心した。家族3人共、それぞれの形で田舎生活を気に入っていた。

3.夫の夢が叶った。転職に成功して、新天地へ。

 こんな毎日がもうしばらく続くのかな?と思っていたら、急に夫が転職に成功した。喜ばしいことだ。そういえば、夫と婚約する前に、「夫の夢の実現のためなら、自分は一歩引いても良いかも」と感じたのが、私にとって結構大事なことだった。それまで私は自己実現に忙しくて、誰かのサポートに徹するなんて、嫌だった。息子が産まれてからは、より一層仕事にかける時間を減らして、家族のサポートをした。そして、それは意外なことに、結構充実していて好きなことだった。
 
 さて、夫は単身赴任するべきかな?それとも、私達もついていくべきかな?引っ越しするとしたら小学校も変わらなきゃな。息子、何て言うかな。この時は、今の場所に留まる、引っ越すは、五分五分かなと想像していた。

「お父さんはお仕事で遠くに行くことになったんだけど、一緒に行くか行かないかどちらがいい?一緒に行くなら、3人でお引越し。おじいちゃん達や従兄弟達にもなかなか会えなくなるよ。小学校も変わって、お友達ともなかなか会えなくなるよ。一緒に行かないなら、お母さんと二人でこの家に住むことになるけど、小学校は変わらないよ。」

 息子は少し考えた後、「ぼくさ、お父さんと離れたくないな。3人で一緒に暮らしたい。」と答えた。私の腹は決まった。

 それからの数か月は正直あまり記憶にない。私の人生で一番ストレスがかかり続けた大変な数か月だった。実家の家族への報告、大学院への報告、退職に関する話し合い、息子の小学校の選定、引っ越し先の選定、ウェブ内見、契約、引っ越し業者の選定、大家さんへの報告、近所の方やお友達への報告。特に一度、契約書提出のタッチの差で物件が契約できなくなった時、「うわー!!!」と叫びたくなるくらい、追い詰められた。私はストレス耐性が高い方だと思っていたけれど、結構メンタルの限界だった。

 ワガママが言えるのならば、自分のタイミングで皆に惜しまれつつ退職するのが理想だったな。修論書き終わってから、引っ越ししたかったな。急に運命共同体の大きな流れに巻き込まれて、自分自身の人生の選択権がなくなってしまった気がした。訳も分からず涙が出てきた。突然急に悲しくなった。
 20年くらいフルタイムで働いてきたのに、最後の幕引きはあっけなかった。微力ながら、もう少し貢献したかった。大学院に通えることになって、両親もとても喜んでくれたのにな。二人は私が大学院に行ってなかったことを、ずっと気にしていたから。私のためだけではなくて、親孝行でもあったんだけどな。途中で投げ出すのも嫌だし、大学院に戻れる目途もたたなくて、気持ちをどう立て直せばよいのか分からなかった。特に修士1年の時、時々夜中まで勉強した努力や、レポートやプレゼンに一生懸命取り組んでいた時間が無に帰すようで、辛かった。
 
 別れを惜しむ間も心の余裕もない生活を送る中で、感情の整理はなかなかできなかった。息子が新しい小学校になじめるのかも、少し心配だった。私自身が新天地を好きになれるのかも分からなかった。
 私は4月から仕事をしないことを決めた。2月、3月の時点で、完全に私のキャパオーバーだった。「これ以上は絶対に無理だ!」と私の心が叫んでいる。3人が新天地で新生活を送るのはしんどい。引っ越しの荷解きだって時間がかかる。スーパーの場所だって、病院の場所だって分からない。誰一人として、知り合いはいない。最初の一年間、私はサポート役に徹することにして、2人の生活を支えようと決めた。とりあえず、新天地の引っ越しをやり遂げたら、ゆっくり休もう。そう決めたら、少しだけ心が軽くなった。

4.家族3人がいる場所がふるさとになる

 引っ越して1年3か月が過ぎた。3人とも、新天地がとっても気に入った。最近ホームだなぁと感じる。自分の地元は大好きだ。私のふるさとだ。でも、息子にとっては、きっとここがふるさとになる。
 運命共同体としての家族3人が一緒にいれば、どこだって最高だ。テントの中だって車の中だって、パラダイスだ。

願わくば、君がずっと幸せで元気でいてくれますように。それさえ叶えば、お母さんは他に何もいらない。

 お母さんが君のことが大事だって伝え続けていたら、君は今までに3回くらい、「お母さんは、自分のことか、僕のことかどっちが大事?」って聞いてくれたね。お母さんは毎回、「そんなの◎◎に決まってるじゃん!」と即答する。そうすると、「僕のこともお母さんのことも同じくらい大切にしてほしいな。」って言う。君はいつも優しい。
 その気持ちも分かるよ。でもさ、お母さんにとって、君は全て。君が世界で一番大切。それはやっぱり変わらないんだよ。そんな状況は存在しないけれど、お母さんの命であっても、君のためなら喜んで差し出すよ。1秒も迷わず、即答できる。
 君はお母さんの全てなんだ。君のためならお母さんは何だってできる。君のためにも、お母さんはお母さんのことを大切にしていくから。君も君のことを世界で一番大切にしてほしい。それで、運命共同体の家族3人で仲良く幸せに生きていこう!

 あ、心配しなくてもいいよ。もちろん、お母さんはお母さんで、自分の人生も楽しく生きていくつもりだよ。noteを始めたのだって、「君に何かを残したい」っていうのが始まりだったんだ。だってさ、お父さんの名前を検索すると、たくさん検索結果が出てくるのに、お母さんの名前で検索しても何も出てこなかったのが、悔しかった。
 このお話をね、note創作大賞ってコンテストに出してみるんだ。だってここで入賞できたらさ、エゴサーチでお父さんに勝てるようになるかもしれないからさ。あぁ、高望みしすぎたよね。まずは予選通過を目指せばいいよね。でもさ、やっぱり目標は高く掲げないと。君もいつか分かる日が来ると思うよ。

 こんな強くておちゃめで直感で生きているお母さんを、これからもずっと好きでいてね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?