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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その5

 またひとりになってしまい、しかたなく部屋に戻ると、闇夜に目が慣れたせいか部屋が先ほどよりもずっと明るく現実味があるように見えました。が、それはあまりよいことではない気がします。することもなくベットに寝ころび、ただぼんやりとこれからどうしたものかと考えました。

 考えごとをするときの癖で、右手でペンをくるくる回していたのですが、ふと、回しづらいペンだな、と思いました。顔を起こして見てみれば、腹の上には開かれたピンクの小箱。回しているのはペンではなく葉巻でした。

 葉巻が粗品とは不道徳なホテルだと思いながら、もしここでぼくが葉巻を吸ってうまいうまいとやったら、そしてもし目を覚ましてからこの夢を忠実に再現したファンタジー小説を自費出版して小学校の図書館の本棚に夜な夜な差し込んでいけば、きっとPTAから苦情が来るだろうな、と想像すると、世の親に根拠の定かならぬ敵意が湧き、吸ったことのない葉巻を無償に吸ってみたくなりました。

 PTA会長を狙うヒットマンのような気分になって、身体を起こすと葉巻の持ち方について検討してみることにしました。
 きっと人差し指と中指ではさむよりも、親指と人差し指でつまむように持ったほうがハードボイルドな感じを引き出せるんじゃないか、あるいは親指と人差し指と中指の三本で持つほうが重量感を出せてもっといいかもしれないと思いました。また小指の角度と曲げぐあいも非常に重要だと思ったので、自分の姿を見ながら確かめてみようと思い、姿見の前に立って確認することにしました。
 ところが逆光になって、姿見には漆黒のシルエットしか映らないのでした。しかたないので、サイドテーブルにあったマッチ(『一寸先は闇』とプリントされていました)で火をつけ、一息吸ってみたところ、くらくらとしてそのまま毛の長い絨毯の上に倒れてしまいました。

 そしてそのままぼくの身体は絨毯の底に沈んでいきました。

 毛の長い緑色の絨毯が身体をすっかり覆い、仰向けのぼくには部屋の薄暗い明かりが隙間からちらちら見えるだけでした。
 口のなか鼻のなかに絨毯の毛が入り、息苦しくて必死にもがきながら絨毯をかきわけかきわけなんとか顔だけ出して呼吸をしますが、その上から無数の海藻のようなものが再び覆いかぶさってきます。顔を出しては沈み出しては沈み、懸命にもがき続けました。
 何度目かにまたやっと地上に顔を出したとき、ベッドの上に人影を見たような気がしました。
「助けて!」
ぼくは必死に叫びました。
 一瞬視界に入ったのは空飛ぶ不良少女ピティ・パイのようでした。
 再び絨毯の海から顔を出すと、少女はベッドに足を組んで座り、葉巻を吸いながら、テレビのCMでも見ているような無関心な視線でぼくを見下ろしていました。
「お願いだ、助けてくれ!」
 少女はふわっとぼくの真上に浮かんで覗き込むようにして、脇をしめて両手をぐっと握り締めました。
「さあいまこそ飛ぶのよ。あなたならできるわ!」
「無理だ!」
 するとピティはまた無関心な顔つきでフーとひと煙。
「どうか哀れと思ってピティ!」
「時代遅れのフォークソングね」

 どうにかこうにかベッドの掛け布団の端をつかみ、それを無我夢中で手繰り寄せてベッドの上に這い上がりました。ピティ・パンといえばまるで何事もなかったかのようにベッドの反対側で葉巻をふかしていました。

「ひどいじゃないか、手も貸してくれないなんて」
 ぼくはぜえぜえと息を整えながらピティ・パンにかみつきました。
「虎は子どもを崖に落とすっていうでしょ」
「なんのことだ?」
「あんたには人心がわからないのね」
 PTAへの理不尽な敵意を思い出し、なにも言えなくなりました。
「ねえもう一本葉巻ある?」
 もうぼくには子どもの彼女に注意する気持ちなどありませんでした。
「一本しかない。ホテルのボーイにもらったんだ」
「ボーイ? どんな人?」
「小人症の男だよ」
「それは災難ね」
「知ってるのか?」
「食わせ者よ。あいつは会う人会う人に『俺はボーイはボーイでもただのボーイじゃないぞ。リトルボーイだ。小さいからって馬鹿にすると爆発しちまうぞ』そう脅して威張ってるの。それでみんな爆発されたら堪らないからあいつの言いなりになっているのよ。このホテルの実際の支配者はあいつなのよ」
「その割にはいまだにボーイなんだね」
「策士だもの。あんたはまんまとはめられた」
 ぼくはなるほどと、妙に納得してしまいました。
「それより見て。おもしろいよ」

 ピティが指さす床に目をやると、緑色の絨毯の長い毛が波打っていました。
 波立つ床はどんどん広くなって、やがて部屋の家具がゆらゆらと揺れだし、電気スタンドは大きな笠だけを水面に残して沈んでしまい、サイドテーブルや肘掛け椅子などは傾きながら見る間に遠くに流れていきます。ぼくとピティの乗ったベッドは幸いなことに浮かんでいました。

 そのとき、大きな不吉な音ともに、ベランダへと続く窓ガラスが割れました。浮かんでいる家具もぼくたちのベッドも、ゆっくりとベランダのほうへ流されはじめます。その向こうは真っ暗闇が大きく覗いていました。

「大変なことになった。このままじゃぼくらは窓の外に投げ出されてしまうぞ」
 しかしピティを見ると、爪の甘皮をむいたり爪を噛んだりしていてまるで無関心です。ぼくは粘り強く言いました。
「ピティ、この部屋は何階なんだ? 六十億号室なんていったら、落ちたらきっと助からないぞ」
 しかし飛べる彼女が心配するはずもなく、むしろぼくに期待を込めたまなざしを送ります。
「だから無理だよ。助けてくれないのなら……」
 恥も外聞もなく、彼女の華奢な両肩をつかみました。
「もうきみを離さないよ」
 ピティは爪を噛むのをやめると、肩に置かれたぼくの手を見つめました。それから一度ちらりとぼくを見ると顔を赤くして、またすぐに目を伏せてしまいました。このときはじめて彼女が少女ではなく若い大人の女性だと知り、ぼくは驚いて肩から手を離しました。

「今まで黙っていたのだけど、あなたに伝えたいことがあるの」
 ピティはこれまでとは違った静かな真剣な口調で言いました。
 ぼくは期待をこめてうなずき、固唾を呑んで彼女の言葉を待ちました。
「最初会ったときあたし女子高生のふりをしたの。でも本当は高校に行ったことがないの」
「うん」
「それから、ピーター・パンの妹っていうのも嘘なの。あたしの名はね、あたしの本当の名は、ピティ・パンじゃなくてピティ・パイ」
 次の言葉をしばらく待ちましたが、ピティはそれだけ言うといつまでも黙っています。しびれを切らし、
「しかし、なぜ今それを?」
「パンよりもパイのほうが好きかなって思ったの。ベーグルと迷ったんだけど。あなたはどっちが好き?」
 しかしもう考える余裕も答える暇もありませんでした。彼女に注目しているうちにぼくらの乗ったベッドは壊れたガラス戸のほんの手前まで来ていたのです。
 今更またピティに期待を寄せてしまった自分を責めながら、どんどん速度を増していくベッドに必死につかまって、絶望のなかで目をぎゅっとつむり、二重の闇に恐怖してまたぱっと見開きました。

 ドドドドドドドと暗闇の向こうで瀑布のような恐ろしい音が大きくなっていきます。それが耳をつんざかんばかりの轟音となると、しかし今度は、耳を疑いましたが、確かにレレレレレレと聞こえたような気がしました。さらに今度はミミミミミミそしてファファファファファ…… なんだか聞けば聞くほど発声練習をするリトルボーイの男性的でよく響くバリトンと似ている気がしてきます。そしてもはや疑う余地なくはっきりとソ・ラ・シと続き……

ド―――――――――――

 見事なビブラートでした。その瞬間、ベッドが暗闇のなかへ放り出され、ものすごい勢いで落下していった、かどうかはすぐに気を失ってしまったのでわかりません。ただ気を失う直前に、これでやっと現実に戻れると思い、「あなたがやめろっていうなら、あたしタバコやめる!」と言うピティの声が聞こえ、リトルボーイが策士であることを思い出しました。

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