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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その7

 あまりに突然のことで、しばらくはなにが起きたのかわからず呆然と暗い空を眺めていました。
 なぜか自分がひどくひどいことをしてしまったような気がしますが、どのような点がひどくひどかったのかは判然とせず、そのことがいっそうぼくを落ち込ませるのでした。そして現実世界でも相手を不機嫌にさせてしまい、その原因が自分ではわからないということがままあったことを思い、そのことがいっそうぼくを落ち込ませるのでした。
 原因はすべてぼくにあるのだというゆるぎない確信が、ぼくの心をゆるがせます。ぼく自身は夢でもうつつでも変わりなく、どちらの世界でもゆらいだまま、自分も世界もつかめずにいるのです。

 それからどれくらいの時間、ベッドに乗って海の上を漂っていたことでしょう。何日も何週間も経ったような気がする一方で、瞬き十回分くらいしか経っていないようにも思えます。空腹も感じず夜も明けないことを考えるとそのほうが現実的に思えましたが、現実的な考え方こそ非現実的なのだと思い直したのは超現実的な動物を見たからでした。

 なにかが絨毯の海を飛び跳ねていたのでイルカかと思いましたが、やかましくブヒブヒ鳴きながらやってきたのは豚の群れで、少しのあいだベッドの周りをぐるぐる泳いでいましたがやがてやかましく去っていきました。
 それから今度は月夜を飛び回る猫の大群がやってきました。ミャーミャーやかましく鳴きながら、絨毯の海に一直線に飛び込んだかと思うと、ネズミをくわえて浮かび上がり、尻尾で水面をたたいて舞い上がります。

 そこで、この海はやはりほんとうの海ではないのかもしれないとぼくはあらためて思い、そしてさらに、この世界は夢の世界じゃなくて文字の世界かもしれないなどと馬鹿げたことを考えるのでした。

 それからさらに何日、あるいは何瞬き、時が過ぎたでしょう。
 闇と孤独と激しい後悔、自己嫌悪の波状攻撃により、いつしかぼくは憂鬱の海に沈んでしまっているのでした。やることといったらベッドのうえで寝ているだけ。そんなあるべき姿がここではもっともあらざるべき姿なのだと思い、憂鬱から脱しなければならないという危機感を抱きました。
 
 そこで彼は、自分をできうる限り客観視して自己の憂鬱な感情から距離を置き、冷静沈着に己を見ること、それすなわち三人称によって理性的・分析的に物事を考えること、自分のことを『男』あるいは『彼』と呼称することにしたのだった。
 男の脳裏に、突如ある記憶が去来した。
 高等学校一学年のころ、男は密かに小説を書いたことがあった。それは自惚れと独善と狭量と撞着、つまりは中二病に満ち満ちたものであったが、そのころ彼は、三人称で小説を書くための訓練として、自分のことを心のなかで『彼』と呼んだ。
 当時書いた小説を思い出すと心臓が早鐘を打ち、顔面が熱せられ、男は「あ」と「え」の中間音、英語発音記号の「ӕ」に当たる音を口腔から鋭く発した。そしてその音波が音速で飛行していく先を目で追っていった男は、目をしばたたかせた。

 山のような形をしたなにかが見える。気の迷いかと一瞬思ったが、やはり海と空の境界辺りに見えることを男の網膜が、瞳孔が、水晶体が脳に伝達した。そして次の瞬間、現実世界の二十四時間周期で言うところの2秒後に、あれは島だと男の脳は判断した。それが右脳であったのか左脳であったのか、脳下垂体であったのか、大脳新皮質であったのか、男は知らない。

 男は歓喜しただろうか。否、喜ぶのは早計だと、三人称の男は静かに目を凝らしていた。

 ふいに、ベッドの底がなにかを擦るような擦過音とともに減速し、とうとう動かなくなってしまった。浅瀬が広がっているのだろうか。ベッドは暗礁に乗り上げてしまったのだろうか。島までの距離はまだかなりありそうだ。いや違うぞと彼は思い、こう言った。
「島はもう目の前だ」
 たしかに彼の言うとおりだった。ぼくの想像していた大きな島が彼方にあるのではなく、小さな小さな、塚のような盛り土がすぐ目の前にあるのだった。
「遠近法による目の錯覚だったな」
 彼は感情のこもらない声で言った。
「まさかこんなに小さな島だったとは」
 ぼくは落胆を隠せない。
「ここにいるのはおまえとおれだけだ。隠す必要などない」
「それもそうか」
「さあ上陸だ」
 泰然自若たる彼に促されるまま、ぼくはベッドから飛び降りて盛り土に着地した。砂地の地面、山のてっぺんの高さはぼくの胸元程度。やはりただの盛り土にしか見えない。
「目頭を熱くしている場合か。まずは島を調査するんだ」
「調査もなにも、ただの砂山だよ」
「向こう側には陸に通じる道があるかもしれないだろう。どうしておまえはそう悲観的なんだ」
「そうそう、ポジティブシンキングが大切よ」
 彼女も彼に加勢したので多勢に無勢、また言っていることは的を射ているようなので、小山の裏側に回ってみることにした。

 すると、そこには大きな穴が開いていた。

 大人ひとりが優に入れる大きさで、暗闇のため定かではないがかなりの奥行きがありそうだ。自然にできたものだろうか、人工物だろうか、いずれにしても驚きを禁じえなかった。
「禁じる必要はない」
「あのさ、いちいちぼくの心の声に答えるの、やめてくれないかな」
「いいからいいから。入ってみなさいよ」

 壁も地面もしっとりと濡れ、そのうえつるつると滑りやすく危険だったが二人に促されるまま進んでいくと、地面が坂になっているらしく足を奪われ尻もちをついてしまい、そのまま身体は滑りだした。手足を伸ばしてもつかまるものもなく、どんどんスピードが増していく。

「まずいぞ、止められない! どうしたらいい!」
「どうしようもない」
 三人称の冷静な男は、それだけにあきらめも早かった。
「キャー、ウォーター・スライダーみたいで楽しい!」

 確かに感覚としては
   ウォーター・スライダーの
          ような具合だが、
     楽しいどころ
   ではない。
滑り落ち
続けた
  その先が
     行き止まりなら
         ひとたまりもない。

「そういえば、おまえは初めて新幹線に乗ったときもおんなじだったよな」
 冷静な彼は息子の過去を語る父親のように楽しげに言った。
「中学の時だったか? 窓外の飛んでいく景色を見て思ったものだ、もしこのスピードで向こうから来る新幹線と正面衝突したら即死だろうとなって。一時間ものあいだ身体を硬直させていたものなあ」
「なにそれ? うける!」
「そんな思い出に耽っている場合じゃないだろう!」
「今を楽しみなさいよ」
「楽しめるわけないだろ!」
「ジタバタしたところでなにも変わらない。それならばこの一瞬一瞬を大切にすることだ」
「自己啓発本的アドバイスが役に立った試しはないよ!」
「ははは、なかなか言うじゃないか」

 スピードはますます上がっていく。
            真っ暗闇でも
           それが
       わかるのは、
    坂の傾斜
  角度が
どんどん
鋭く
 なって
  いくのが
     体感
      される
        からだ。
          もう
           まるで
             九十度
              の
            角度
           で
         真下
        に
       落ちて
      いる
     よう
     な
    感覚
   に
  なっ
 た

思っ

ら、

つ 









た。
 
 ジェットコースターを乗り終えたときのように茫然としていると、
「あーあ、終わっちゃった。もう出口」
 彼女の言うように、少し先に四角い光が見えた。
「ドアじゃないか?」
「ああ、そうだな」
 彼は妙にしんみりした声で言った。
「さあ行け!」
「行けって、きみたちは?」
「おれたちは心のなかでおまえを応援してやるよ」
「がんばんなさいよ」
「そうか……」
「悲しむことはない。おれたちはいつもおまえのなかにいるよ」
「いや、安心してるんだけど……」
「ふっ、強がりを言えるようになったじゃないか」
「おっとなー」
「いやほんとに……」
「大丈夫。もうひとりでやっていけるさ。おれの役目は終わったよ」
「サラリーマンを慰めるスナックのママももう必要ないわね」
「そういう設定だったの? わからなかったよ」
「扉を開けろ。憂鬱からの解放だ」
「ボトルはわたしが空けとくから、安心して」

ぼくは二人に促されるままに扉を開け、光のなかに進んでいった。

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