【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その4
またひとりになってしまい、しかたなく部屋に戻ると、闇夜に目が慣れたせいか部屋が先ほどよりもずっと明るく現実味があるように見えました。が、それはあまりよいことではない気がします。
することもなくベットに寝ころび、裏の裏は表といった具合に夢のなかで眠れば目が覚めるだろうかと目を閉じていたところ、だれかがドアをノックしました。
どうせ新聞の勧誘か牽強付会なNHKに違いないと思い、無視を決め込もうとしましたが、それはなんだかとても上品なノックでした。そのあとに続き、
「ルームサービスです」
と、どこか気取った感じの男性の声が聞こえました。
ドアまで行き覗き穴から外を見ると、だれもいません。先の例で用心深くなっていたのでドアチェーンをかけてからドアを開けました。
しかしそこには誰もいませんでした。
「わたくしどものホテルにご滞在いただきまことにありがとうございます」
見下ろすと、赤いシルクハットが声を発していました。それから一歩、二歩と下がりお辞儀をしました。
小人症らしく大変背が低い男で、赤いシルクハットに赤い蝶ネクタイ、青いエナメルスーツという派手な出で立ちは昔の映画などで見かけるマジックショーの道化といった感じでした。
「ただいま期間限定でご宿泊のお客様に感謝の粗品を配っているところなのでございます」
男は腹式呼吸のよく通る声で言いました。
「すみません」ぼくは慌てて言いました。「ぼくは宿泊客ではありません。ドアが開いていたものだからつい入ってしまったのです」
しかし宿泊客のふりをしてやり過ごせばいいじゃないかというよこしまな囁きが耳をかすめ、ついつい小声になってしまったためか、ボーイらしき男はぼくの言ったことが聞こえなかったようでした。
「それでは歓迎の歌を歌います」
数歩後ろに下がり、しゃがれた咳を一つすると「ドレミファソラシド~」とよく響く男性的な声で発声練習をしました。それから堂々としたバリトン(でしょうか)で、歌い出しました。
迷子の迷子のお客さん
あなたのお部屋はここですよ
歌詞は違いますが『犬のおまわりさん』のメロディです。
ドアチェーンをはずしていなかったので、男が数歩後ろに下がってしまうと姿はもう見えません。しかしボーイは気にすることもなく歌い続けます。歌の語尾をオペラ歌手さながらビブラートさせるときに両手を左右に広げるようなので、雨降りを確認しているかのような片方の手のひらだけが、ドアの隙間から時々見えたり隠れたりするのでした。
あたしゃーしがないボーイです
何十億もの部屋抱え
エンエンエエーン エンエンエエーン
ぢーと手を見る暇もない
同情するならドア開けて
一緒に歌おう
ウェルウェルカムカーム ウェルウェルカムカーム
歌が終わってもぼくがそのまま沈黙していると、優雅な手のひらの動きとともに、
エンエンエエーン エンエンエエーン
かーわいそうなボーイさん
それでも沈黙を続けていると、
エンエンエエーン エンエンエエーン
こんな仕打ちは初めてよ
それでも沈黙を続けていると、
エンエンエエーン エンエンエエーン
カエルの警察呼びましょか
とうとうしかたなくドアチェーンをはずすとドアを開きました。
ウェルウェルカムカーム ウェルウェルカムカーム
小人の男はさも満足そうに両手を左右に大きく開いてしばらく目をつむっていました。ようやく鼻から大きく息を吸うとゆっくりと目を開き、
「ご滞在ありがとうございます」
ひょこひょこ前に進み出てシルクハットの中から光沢のあるピンク色の包装紙に黄色のリボンが巻かれた小箱を取り出しました。
「記念の粗品でございます」
その派手な小箱は熱帯生物の警告色のようで受け取りたくありませんでした。それで今度ははっきりと、
「ぼくは滞在客じゃないんです。すみません。今すぐ出ていきます」
ボーイは呆然とぼくの顔を見上げていました。
「お客じゃない?」
「はい……すみません」
なかなか男前な顔に見る見るしわが刻まれ、急激に老けたようになって、そしてこれまでの耳ざわりのよいよく通った声が嘘のようなしわがれ声で、
「あなたねえ、困るよ。こちとらわざわざこんなタキシードまで着て歌まで歌ったのに今更お客じゃないなんて、こっちの身にもなってくださいよ! えっ? この先まだ十億部屋以上あるんですよ」
「すみません……」
「わたしの歌はタダじゃないんです。お客じゃない人がそうそう聴けるシロモノじゃない」
「そうでしょうね」
笑顔を作ったつもりでしたがわざとらしかったかもしれません、ボーイはフンと鼻を鳴らしました。
「まったくこのままじゃ骨折り損のくたびれ儲けだよ」
「本当にすみません」
すると下から探るように、
「儲けがあるんならいいじゃないかって今思ったでしょ」
「いいえ、思ってません」
男は腕を組んで右手の親指と人差し指であごを支え、なにやらしばらく考え込んでいました。宿泊代を払えと言われても財布も何もありません。カエル警察に通報されたらと思うと気が気ではなくはらはらしていると、
「まてよ、いい考えがあるぞ」とボーイはぼくを見上げました。「要は帰納法ですよ。いやこの場合は演繹法なのかな。三段論法? 弁証法? アウフヘーベン? ズーズーベン?」
男はまた腕を組んで考え込んでしまいました。しかしじきに、
「そうか、仮定法だ!」
と満足そうにぼくを見上げました。
「高校のとき英語の授業でやったやつですか?」
「まあ当たらずとも遠からず。いいですか、このままじゃわたしのやったことが無駄になってしまう。無駄にならないためにはどうすればいいかというと、あなたが本当のお客ならいいわけです。わかってますよ、あなたはお客じゃないんでしょう? だからね、答えはひとつ。あなたが客のふりをすればいいんです」
「でもどうやって?」
「簡単ですよ、普通のお客様のように部屋でくつろいでベッドで寝たりルームサービスを呼んだりしてくれればいいんです」
「でも客でもないのにルームサービスを呼んだりしていいんですか?」
「客じゃないならルームサービスを呼んでいいわけがないでしょうに。人として常識ですよ」
「だから出ていくと言ってるじゃないですか」
「それじゃあわたしはなんのためにわざわざタキシードを着て歌ったんです」
ぼくはもうなんだかわからなくなったので黙っていました。
「そうだ、もっといい方法があるぞ!」ボーイは片手でシルクハットを叩きました。「あなたはお客じゃないと言う。でもわたしはあなたがお客じゃないと困る。だからわたしが、あなたがお客だと信じているふりをすればいい訳です。大抵の高校生がつまずく仮定法の高等テクニックですな。わかりますか? 仮定法自己完了です」
「それは……つまり、どういうことですか?」
「つまりですね」
と男は急にはっとしてはにかんだような微笑を顔中に浮かべました。
「大変な失礼を致しました。こちらの手違いでとんだご迷惑を。改めてご滞在ありがとうございます」
男は再び若返り、声もよく通る滑らかなものに変わっていました。そしてまた先ほどの小箱を突き出してぼくの手に押し付け、
「粗品ですがお受け取りください。今後ともわたくしどものホテルをご贔屓下さいますようどうぞお願いいたします」
シルクハットを取って深々と一礼すると、もうぼくを見向きもせずにウェルカームウェルカームと口ずさみながら歩き去っていきました。そしてすぐに、ピティ・パンと同じように闇のなかに消えてしまいました。
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